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罪悪感なんて、いらない

罪悪感があると、自分に罰を与えようとしてしまう。楽しいことをしてはいけない、好きなことをしてはいけないと思ってしまう。

例えば、わたしは長い間、生きていることに罪悪感があった。幼い頃から、母親は常に不機嫌で、夫の悪口ばかり言っていた。なぜ離婚しないのか質問すると、あんたたちがいるからね、と答えた。それ以来、母親は自分がいるから不幸なんだと、生きることに罪悪感を抱えていた。(今では、それは勘違いだったと気付いている。)

そのため、好きなことをしたり、やりたいことをやろうとする度に、どこか後ろ髪を引かれる思いをしていた。実際に、先に自立した兄が夫婦で色んなところに旅行していることに対して「わたしなんか旅行なんかしていないのにズルい」と、実の息子が幸せに生きていることに嫉妬していた。その悪口を聞かされて育った私は、なおさら、自分が幸せに生きることに対して罪悪感を覚えるようになった。

だから、自身がストレスで身体を壊すまでの30年間は、常に母親の顔色を伺い、ご機嫌取りをしてきた。そうでもしなければ、自分は幸せになる資格がないような、そんな気持ちになっていた。しかし、母親は自分が可哀想だと思われることが好きな人間なので、どんな励ましの言葉かけてもメンタルは良くならなかったし、お礼の言葉を言われるどころか逆ギレをされたりもした。

今では、自分自身の方が本格的に精神病になってしまったので、母親とは距離を置いていて、それからだんだんと体調が良くなってきた。そんな経験を経て、今ではこんなことを思っている。「好きなことをしたり、幸せに生きることに資格はいらない」と。

好きなものを食べて、好きな場所に住んで、好きな音楽を聴いて、楽しく生きていくことに、なんの条件もいらない。ただ一つあるとしたら、それは生きているということだけ。

私は双極性障害と診断されて、2年ほど休職したことがある。その期間は、罪悪感がすごくて、自分には生きる資格がないと思っていた。だから、美味しいものを食べてはいけないと思っていたし、髪型を整えてもいけないと思ったので、髪をバリカンで全剃りした。体調が悪い中、無理に資格試験の勉強をしたりもした。

今思えば、そんな必要はなかった。病気で会社を休むことは罪じゃないからだ。だから、会社を休職していたって、好きなことをしてもいいし、美味しいものを食べてもいいし、髪型を整えたりおしゃれをしてもいい。それに条件なんかいらない。

最近、大谷翔平さんの通訳が違法賭博で借金をしたことが話題だが、ギャンブル依存症の根底には、この罪悪感があるように思う。生きることに罪悪感があって、自分が好きなことや、楽しいことにお金を使えないから、ギャンブルであぶく銭を稼ごうとしてしまう。その気持ちはものすごく分かる。

何度も言うように、好きなことをしたり、幸せに生きることに、何の条件もいらない。生きることは罪じゃないし、自分の親が不幸な顔をしていたとしても、それは自分の罪じゃない。自分の人生の責任は自分で取るべきであって、それをアドラーは「課題の分離」「自他の区別」と名付けている。

会社を休職しても、それは罪じゃない。具合悪ければ会社を休むのは当たり前。だから、休職期間中はたくさん寝て、たくさん休めばいい。すきなことをしたり、美味しいものを食べてもいい。生きているなら、みながその権利がある。

「働かざる者食うべからず」ということわざがあるが、そんな憲法違反の言葉は無視すればいい。戦時中だって負傷したら病院で入院するだろう。入院中の負傷兵に「働かざる者食うべからず」なんてことを言う人間がいたら、世が世なら逮捕されるはずだ。

だから、罪悪感なんて、いらない。
好きなことをしよう。

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