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おもしろきこともなき世をおもしろく

お腹が減ったら、自分でご飯を買ったり作ったりして、食べます。栄養を得て、排泄し、またお腹が減ったら、食べます。

その循環の中を生きている限り、”代謝”が生まれ、生命活動が維持されます。

幼児の頃は、自分で完結できないので、オギャー!と泣いて、養育者を呼び、ご飯を食べさせてもらい、排泄を補助してもらい、お腹が減ったらまた泣きます。

成長するにつれ、お腹が減ったら、自分でご飯を用意して、食べることができるようになるわけです。

時間が経てば自然とお腹が減るように、「心」についても、何もしないで時間が経てば、自然と退屈になったり、つまらなくなると、私は思っています。心が健全な状態でいるためにも、「喜び」「楽しみ」といった栄養が必要だということです。

そのため、お腹が減った時に食べ物を買ったり料理を作ったりするのと同じで、心が退屈しないようにするためには、能動的に楽しいことを探したり、生活が充実するように行動する「主体性」が必要なのだと思います。

もし「誰かに楽しませてもらう」「誰かに喜ばせてもらう」といった「受け身」な態度でいたら、それをしてくれる相手をいつまでも探すことになってしまいますし、そんな都合の良いドラえもんみたいな存在は現実にはいないので、勝手に誰かに期待して、失望をするようなコスパの悪い生き方をしてしまうのではないかと思います。

それに、そもそも人生”そのもの”が楽しくワンダフルなものであるといった幻想は捨てた方がいいのではないかと思います。幕末を生きた高杉晋作はこう言っています。

おもしろきこともなき世をおもしろく
住みなすものは心なりけり

これを私なりに解釈すると、人生を楽しくするもしないも、自分次第だということですね。

何も行動せず、誰かに満たしてもらうことばかり期待して、勝手に不満を抱いていたら、いつまでたっても人生がつまらないのは当たり前です。

それはまるで、何も食べずにいたらお腹が減るのと同じなのではないかと思います。お腹が減ったからといって、誰かに食べさせてもらうことを期待するのは、まるで幼児のそれと同じです。

しかし、人生が楽しくない、つまらないといって、それを誰かのせいにしたり、誰かに満たしてもらうことばかり期待する人は、意外と多いのではないかと思います。(謎に不機嫌な雰囲気を醸し出して、顔色を伺わせるタイプの上司っているじゃないですか。自分の両親もそんな感じの人でした。)

自分自身も、「人生がつまらない」と思う瞬間がこれまで多かったように思います。そんな自分のことを「生きることに向いていない」と思い、落ち込んでいたこともあります。

しかし、今思えば、ただ単に「楽しいことをしていない」「自分が喜ぶことをしていない」だけだったんですよね。何も真新しいこともせず、計画も立てず、行動もせずに、「役に立つことだけしよう」という思い込み(洗脳)に従い仕事ばかりしていたから、人生がつまらなかったんですね。(楽しいことや、自分が喜ぶようなことって、だいたい役に立たないことなんですよね。)

そんな生き方をしているから、ストレス耐性も弱くなって、発症脆弱性が増し、結果的に適応障害や双極性障害になってしまったのではないかと思っています。

そんな反省をしているので、楽しいことや真新しいことを、次々と計画を立ててやりたいと思っています。そして、そのためにも身体の健康は必須ですし、ダラダラとスマホを見てる時間を減らすなどして、一日一日を大切に生きるという意識が必要なんじゃないかとも、自分に対して思っている次第です。

もちろん、こんな考えに至るまでには、3年弱くらいはうつ症状や希死念慮との闘いでしたし、昨年の十月には睡眠剤の過剰摂取をしてしまうという出来事もあったので、偉そうなことは他人には言えません

ただ、少しずつ体調が改善するに従い、「あーもっとこう生きればよかったんだ」という気づきが多いので、忘れないようにnoteに書いているだけです。

ですので、そもそも歯磨きですら辛いという方は、まずは主治医に従って、睡眠や食事をきちんと正常化して、罪悪感無く過ごすことができるようになるまで、のんびりすることが大事なのではないかと思います。
(それが結構難しいんですよね。上司や親に責められる妄想を抱かずに罪悪感なく眠れるようになるまで、自分の場合は1年以上かかりました。)

最後までご覧いただき有難うございました。

※ちなみに、自分のやりたいこと。
網走方面のドライブ・網走観光・乗馬・資格試験・英語の勉強・弾き語り動画UP・筋トレ・弾ける曲を増やす・復職・貯金・ライブをしたい・ライブを見に行く・痩せたいなど





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