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イスラエル・パレスチナ問題を知る ②

4.ユダヤ人迫害の歴史2

【黒死病とユダヤ人迫害】

ユダヤ人に対する迫害が最も広範囲で、しかも激しく行われたがのが14世紀の英国とフランスの百年戦争の最中の1348年~1352年の黒死病の大流行中の最中に起こったユダヤ人迫害でした。
その間の戦争、農民一揆の多発、教会の大分裂と教会批判の始まりなど、中世ヨーロッパが転換期にさしかかっていたことに対するキリスト教徒の不安がユダヤ人に向けられ、多くの迫害が行われたと考えられています。
黒死病がヨーロッパ中に蔓延すると、ユダヤ人に大きな影響を与える嘘が世間にばらまかれました。それは、彼らが井戸に毒をまいて人々に黒い死をもたらした、というものでした。この嘘はヨーロッパ全土でユダヤ人迫害を引き起こしましたが、それは集団パニックではなく、ユダヤ人についての間違ったニュースが広がったことから、根絶の波がユダヤ人を襲ったのでした。
例えば、1348年には、あるユダヤ人医師が拷問を受けた末、次のように白状しました。
「結託したユダヤ人たちが毒を醸成し、それをユダヤ人の各ディアスポラ(離散して住んでいる場所)へと送り、各地の井戸にそれを撒き入れるよう指示した」
当局はローザンヌで取ったこの自白の写しをフリブール、ベルン、仏ストラスブールへと送り、これがドイツ帝国にも広がりました。各都市は追放や根絶の経験を交換し合いました。このニュースが届いた場所では、現地に住むすべてのユダヤ人に対して家宅捜査や拷問、さらには根絶行為が行われました。
同年にはスイスでも、ベルン、ブルクドルフ、ゾロトゥン、シャフハウゼン、チューリヒ、ザンクト・ガレン、ラインフェルデンの町がユダヤ人を根絶したり追放したりしています。
アーラウやヴィンタートゥールなどの自治体は躊躇していましたが、49年に他の町からユダヤ人処刑を諭され、結局それに従いました。バーゼルの評議会は48年にはユダヤ人墓地を荒らした無法者を追放していましたが、49年にはユダヤ人全員を町から追い出し、ライン川に浮かぶ島の1つにそれ用の木造の小屋を建て、何百人ものユダヤ人を焼死させました。
ユダヤ人迫害はライン川に沿ってオーストリア、ポーランドまで広がり、長いユダヤ人迫害の歴史の中でかつてない最も恐ろしい大虐殺が相次いで行われたのでした。60の大ユダヤ人集団、150もの小集団は絶滅し、ユダヤ人は再びかつての繁栄した時代の人口を回復することはできませんでした。

【スペインのユダヤ人】

ユダヤ人が最も多く居住し、またその歴史にとってもも重要な場所となったのはイベリア半島のスペインでした。

イベリア半島にはローマ時代からユダヤ人が住むようになりましたが、8世紀のイスラム勢力の進出に伴って多くのユダヤ人が移住しました。10世紀ごろに国土回復運動(レコンキスタ)が盛んになっても、初めの頃はキリスト教のカスティリヤ王国においてもユダヤ人は財政や外交で、知識人として重用されていました。

ムラービト朝・ムワッヒド朝は原理的なイスラム教国であったので、ユダヤ教徒は排除され、多くは北のカスティリヤ王国か、東方のエジプトなどに逃れました。その一人、マイモニデスは学者と医者として知られ、エジプトのサラーフ=アッディーンに仕えて信託されたことで知られています。

しかし、1212年、ラス=ナバス=デ=トロサの戦いを転換点としてイスラム勢力の後退が始まり、キリスト教側の優勢が明確になると、ユダヤ教徒優遇の意義がなくなり、他のヨーロッパ各地で十字軍運動とともに始まったユダヤ人に対する、激しい宗教的不寛容、排他的国家主義、商業的対立などがイベリア半島にも及んできました。1391年6月にはセビリャから始まったユダヤ人襲撃がスペイン全土に広がりました。この時、約7万人が犠牲となり、難を逃れるにはキリスト教に改宗することしかなく、多くのユダヤ人が改宗しました。

15世紀初頭のドミニコ会士ゼセンテ・フェレールは熱心な反ユダヤ演説を各地で行って熱狂的な信者を動員し、多数のユダヤ人を改宗させました。14世紀末のスペインのユダヤ人人口は約25万人(カスティリャに約18万人、アラゴンに約7万人)とされ、1492年までに約15万人がキリスト教に改宗したと言われています。

1479年、カスティリャとアラゴンの統合が実現し、スペイン王国となりました。カトリックによる統一国家の建設を目指すフェルナンド王とその妻イサベル女王は、異端審問などで異教徒の取締りを強めていきました。イザベラ女王は1483年に宗教裁判所長官にドミニコ会のトルケマダを任命し、コソベルソの中の偽改宗者のあぶり出しを本格化させました。キリスト教に改宗したユダヤ人でもひそかにユダヤ教を捨てていないという疑いのあるものは異端審問会(ドミニコ会修道士)によって尋問され、弁護人はなく、非公開、自白しなければ拷問にかけるという宗教裁判にかけられていきました。

カトリックの立場での宗教政策の一本化を完成させるために出したのが、1492年1月、グラナダが陥落してレコンキスタが完了した直後の1492年3月31日に出した、ユダヤ教徒追放令でした。これによってユダヤ人は7月末までに出国するか、キリスト教に改宗するかの二者択一を迫られ、その多く(10万以上にのぼったという数値もある)は隣国のポルトガルやオスマン帝国の都イスタンブールに逃れ、残った者はキリスト教に改宗しました。

ユダヤ教からキリスト教に改宗した「新キリスト教徒」はコソベルソと言われました。しかし、彼らの中にはうわべだけの改宗で内心の信仰を捨てていないものも多く、そのような偽改宗者(いわば「かくれユダヤ教徒」)は最も警戒、あるいは蔑視され、その蔑称としてマラーノ(豚という意味)と言われるようになりました。特にマラーノはキリスト教徒にとって危険で不純な存在とされ、その疑いのある者は厳しく異端審問を受けなければなりませんでした。

どのようにして偽改宗者(隠れユダヤ教徒)を摘発したのでしょうか。次のような行為が疑われる行為でした。

・安息日。ユダヤ教の安息日は金曜日の日没から土曜の日没まで。その間は一切、体を使ってはいけない。だから、土曜に働かず、日曜に体を動かすようなものはユダヤ教と見られた。日曜日に煙突から煙が出ている家は隠れユダヤ教徒ではないかと疑われた。

・食べ物。ユダヤ教徒は豚肉は食べない(イスラム教徒も同じ)。出された豚肉を食べないと、ユダヤ教徒と思われた。

・名前、ユダヤ教徒は旧約聖書に出てくる人物の名前を付けた。それを隠していても、本当の名前を呼んでしまい、発覚することもあった。

などなど。異端審問官トルケマダは、これらの隠れユダヤ教徒摘発マニュアルを作り、摘発しました。また、最も奨励され、効果が上がったのがユダヤ人同士の密告でした。時には同じ共同体の仲間、家族の間でも密告されました。

異端審問官トルケマダは在職18年間に9万人を終身禁固に、8000人を火刑に処したことで最も恐れられた審問官でしたが、実は彼自身がユダヤ系修道士なのでした。

改宗したユダヤ人の中にもいつ疑われて審問にかけられるかわからないため常に不安であり、国外に出ることは認められていないので、密かに逃亡する者も多くありました。

このようにスペイン(後にポルトガルからも)を逃れてユダヤ教信仰を守ったもの、あるいは異端審問の恐怖から国外逃亡した改宗者は、ヨーロッパ各地に逃れていきました。かつてパレスチナの地から最初の離散(ディアスポラ)をしたユダヤ人は、ここでイベリア半島から再びの離散を強いられたのでした。

彼らイベリア半島からの離散者はセファルディ(ヘブライ語でスペインを意味する語に由来。その複数形がセファルディーム)と言われました。彼らは長い時間の中でスペイン語にトルコ語やアラビア語などを混合させたラディーノ語を話すようになり、地中海世界のユダヤ人の支配言語になっていきました。セファルディームはイスラム帝国のもとではズィンミー(庇護民)とされ、スルタンへの人頭税を支払うことでユダヤ教の信仰の自由と自治を認められました。

一方、ドイツに移住し、ドイツでの迫害から逃れてポーランドなどスラブ圏に移住していったユダヤ人はアシュケナージ(ヘブライ語でドイツを意味する語に由来、その複数形がアシュケナジーム)と言われました。

【ポルトガルでの強制改宗】

スペインから追放されたユダヤ人の多くは当然隣国のポルトガルに向かいました。ポルトガルの国王ジョアン2世は大金は払ったものは入国を認めましたが、入国できなかったものの多くはアフリカ沿岸に廻され奴隷として売られました。次のマヌエル1世(在位1495~1521年)はポルトガル人の経済活動をポルトガル人の経済活動に利用した方が良いと考え、国内に残っていたユダヤ人に再び自由を与えました。

ところが、スペイン王国の両王フェルディナンド王とイザベル女王の間の王女イザベルとの結構の話が持ち上がった時、王女イザベルが「異端者であるユダヤ人が一掃されるまで」ポルトガルに入らないとの手紙をマヌエル1世に送ったため、1496年11月、結婚の取り決めの調印と同時に10カ月以内にユダヤ教徒(及びイスラム教徒)の国外追放令が出されました。

しかし、ユダヤ人の市民としての価値を認めるマヌエル1世はユダヤ人をカトリックに改宗させてポルトガルに残すことを狙い、4歳~14歳のユダヤ人の子供すべてを強制的に出頭させて洗礼を受けさせました。1497年の春、「過越の祭」の初めにこの命令は発せられ、所定の時間に出頭しなかった子供は役人が捕らえて洗礼盤に無理やり引っ張っていきました。ポルトガルを出ることになったユダヤ人もリスボンの港に集められ、洗礼を拒絶したものは強制改宗させられました。

このように強制的に形だけ改宗させられてポルトガルに留まることは許された「新クリスチャン」は、その後も「隠れユダヤ教」と疑われ、厳しく異端審問の対象とされました。また、皮相的に改宗しただけのユダヤ人は狂信的な憎悪の対象になっていきました。1506年にはリスボンで「新クリスチャン殺戮」の凶行が絶頂に達し、この時だけで2000人の生命が失われました。

さらに、1580年にポルトガルがスペインに併合され、イベリア半島全域で宗教裁判(異端審問)が厳しく行われるようになると、「新クリスチャン」として残っていたユダヤ人は、当時スペインから独立運動を展開していたプロテスタントのネーデルランド、アムステルダムを新たな移住先に選び、逃れていきました。これらのユダヤ人は、ダイヤモンド加工などの手工業や金融業を担うこととなりました。アムステルダムに逃れた改宗ユダヤ人(コンベルソ、その蔑称をマラーノ)の子孫の一人が17世紀の汎神論哲学者スピノザです。

【ポーランドのユダヤ人】

東ヨーロッパのポーランド王国などのスラブ系民族の地域にも早くからユダヤ人が移住していました。はじめは、6~10世紀ごろ、南ロシアの草原にあったハザール国がユダヤ教を受容してユダヤ化し、彼らがヴォルガ川などの通商路に沿って北上し、定住したことによります。しかしその後、13世紀前半にはモンゴルの侵攻があってスラブ社会がいわゆるタタールのくびきが及んだが、その間のユダヤ人社会についてはよく判っていません。

モンゴル軍が引き揚げた後、13世紀の中頃、ドイツの東方植民が活発になると、ユダヤ人の活動の場も増え、新たな東方への移住が始まり、ポーランドの支配者たちもカトリック教会の警告にもかかわらずユダヤ人を保護することもありました。

このようにポーランドなどスラブ人地域へのユダヤ人の移住は比較的平和裏に進み広く定着しました。彼らはドイツ語にスラブ語やヘブライ語を取り入れたイデッシュ語を話し、ヘブライ文字を用いており、アシュケナージと言われています。彼らは一定の自治が認められ、手工業や商業、あるいは国王の財政官に取り立てられるなど安定した社会を形成し、それを背景にタルムード研究などの文化を発展させました。

しかし、17世紀、一転して東ヨーロッパのユダヤ人は危機を迎えました。1648年ポーランド王国の支配下にあったウクライナで、頭目(アタマン)のボクダン=フメリニツキーに率いられたコサックが反乱を起こすと、彼らはユダヤ人に対する襲撃を始めました。ポーランド王国の元で保護され、社会的にも安定した生活を行っていたユダヤ人に対する反発があったのです。

まもなくポーランドはコサックの反乱を支援するロシア軍と、ロシアに対抗する新強国スウェーデンが侵攻し、外国軍隊によって国土が荒廃する「大洪水」と言われた社会不安の中で1648年~58年までの10年間で約10万人のユダヤ人が虐殺されたと言われています。大規模なユダヤ迫害はその後も続き、ポーランドのユダヤ人はほぼ絶滅し、北部地方に逃れるか、西ヨーロッパに逃れていきました。西のドイツでは、1648年のウェストファリア条約によって小領邦国家が独立し、それぞれが国家運営でユダヤ人を必要とする面があったため、ドイツに戻ったユダヤ人が受けられる状況がありました。

1517年、ドイツで宗教改革を開始したルターはローマ教皇の制度を批判したので、初めはカトリック教会に抑圧されていたユダヤ教徒もルター派のキリスト教に改宗し、福音が及ぶことを期待しました。しかし、ユダヤ人が改宗することはなかったので失望し、かえってユダヤ人を深く憎悪するようになりました。プロテスタントの領主にもユダヤ人を追放するように要請しました。そのため、プロテスタント圏でもユダヤ人に対する迫害はカトリック圏と変わることはありませんでした。

カトリック教会による反宗教改革では、ルネサンス期のローマ教皇の寛容さは失われ、ユダヤ人にとっては最も暗い時代となりました。例えば、1555年教皇となったパウルス4世は、突然マラーノ保護をやめ、アンコーナで取締りを再開、ユダヤ教を固守する25人を火あぶりの刑に処しました。さらに中世のユダヤ人抑圧法を復活させ、ゲットー(ユダヤ人を強制的に隔離し、集団で居住させた地区のこと)を設けて隔離し、ユダヤ人に差別バッチを付けることを強要しました。このようなカトリック圏でのユダヤ人迫害は19世紀中頃まで続きました。

続く


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