イスラエル・パレスチナ問題を知る ⑤
【パレスチナ分割案とイスラエル建国】
第二次世界大戦後、英国のアトリー労働党内閣はパレスチナ放棄を決意し、成立したばかりの国際連合に「丸投げ」することとしました。
国際連合は問題の解決を図るために、国連パレスチナ特別委員会(United Nations Special Committee on Palestine: UNSCOP)を設置し、両民族の紛争解決の提案を指示しました。現在、知られているところのパレスチナ分割案は、このUNSCOPによる草案に基づくものです。国連は1947年11月29日、パレスチナ分割決議案(国連総会決議181号)を採決し、アラブ人とユダヤ人の両者に独立国家の樹立を認めることで紛争の解決を図ろうとしました。
しかし、この分割案は現実に履行されることなく、翌年には両民族の間で大規模な戦闘が勃発しました。第二次世界大戦直後からパレスチナ全土において散発的な衝突が続いていましたが、分割案可決はアラブ・ユダヤ両民族の緊張を過度に高めるよう作用し、1947年末から本格的な戦闘が両民族間で開始されました。
既にユダヤ側の軍事力は軍備を整えるための経済力を含め、その質や組織力の面からパレスチナ・アラブ側を凌いでいました。その結果、指導者層を含めた中産階級以上のパレスチナ人は、紛争地域からの非難を強いられることになりました。
この非難はドミノ現象のように多くの市民に影響を及ぼし、家族から隣人、隣人から街頭、そして街頭からその地域一帯へと続きました。その先駆けとなったのは、ハイファ、ヤーファ、エルサレムなどの主要都市でした。これらの都市のパレスチナ人の多くは、ナザレ、ナブルス、ガザ(それぞれアラブ国家予定地内)、あるいはアンマン(ヨルダン)、ベイルート(レバノン)、カイロ(エジプト)などの国外に避難しました。避難の要因は、ユダヤ国家に取り残された場合の失業や差別に対する恐れ、食糧不足、治安の悪化、パレスチナ・アラブ社会の構造的脆弱性などが挙げられています。
国外に避難した中産階級以上のパレスチナ人は自らの亡命を一時的なものであると考えていました。彼らはこの困難を乗り切るだけの資金を有しており、現地の裕福な親族の存在も避難を可能にしました。
一方、一般市民にとって、避難は貧困への転落に他なりませんでした。富裕層の避難はパレスチナ・アラブ社会と経済に深刻な打撃となり、パレスチナに留まった貧困層や農民にも動揺を与えました。両民族の混在した都市ではコミュニティ間の衝突が激しくなり、戦闘が長引くにつれ、移動、通信、失業、食糧配給の問題はその度合いを増していきました。1948年3月までに約75,000人のパレスチナ人が難民化したと見られています。
1947年11月29日、国連総会における国連パレスチナ分割決議案可決から、イスラエル建国の日に当たる1948年5月15日までに、約38万人のパレスチナ人が難民となりました。国連の報告ではパレスチナ戦争(第一次中東戦争)終結までにその数は約2倍となり、72万人に達しました。
パレスチナ問題解決を付託された国連は1947年11月29日に総会にかけました。国連勧告案は、パレスチナを分割して、ユダヤ人とパレスチナの二つの国家を建設し、聖地エルサレムは国連管理下に置くというものでした。アラブ諸国は反対、ユダヤ人側と米国、ソ連の対立する2大国は賛成、という状況の中で採決された結果、賛成33、反対13、棄権10で可決されました。この分割案は、パレスチナの全人口197万人中の約3分の1の60万人に過ぎないユダヤ人にパレスチナ全土の56.5%を与えるもので、ユダヤ人にとって有利なものでした。
このパレスチナ分割案を国連が採択した背景には、米国がイスラエル支持に回ったことが大きな要因でした。この時の米国大統領トルーマンは「イスラエルは票になるが、アラブは票にならない」と言ったといいます。大統領選挙で米国内のユダヤ票を期待していたためです。
パレスチナのユダヤ人は、かつてのバルフォア宣言が不十分ながらも実現したものとして歓迎し、国連調停案を受け入れていましたが、1945年に結成されていたエジプト、イラク、シリア、レバノン、などのアラブ連盟はアラブ人の居住地が分割されることに強く反発しました。
【パレスチナ戦争(第一次中東戦争)】
国連での採択を受けて1948年5月14日イスラエルが建国を宣言すると、アラブ連盟が一斉に侵攻し、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)が勃発しました。この戦争のイスラエル側の呼称は「独立戦争」であり、アラブ側は大災害を意味する「ナクバ」とも呼ばれます。
開戦時のアラブ側兵力は15万人、対してユダヤ人は民兵合計3万人という圧倒的な差でした。アラブ側の主力は、アラブ軍団と呼ばれる精鋭部隊を持つヨルダン軍と、シナイ半島から進撃するエジプト軍でした。対してイスラエル側は国連によって武力保持が禁じられていたため、ゲリラ部隊ハガナー(ユダヤ人軍事組織、イスラエル国防軍の基礎となった)がチェコスロバキアから密輸されていた小銃などで応戦していました。5月18日にヨルダン軍がエルサレムを包囲し、28日には旧市街のユダヤ人防衛部隊が降伏しました。
しかし、エルサレム新市街はイスラエルが保持し続け、テルアビブの支持もあり徹底抗戦を行っていました。そこへの補給を巡り、ラトルンの要塞などで激戦が行われました。結局、要塞はアラブ側が保持したものの、6月にイスラエルは迂回路を設定しエルサレム新市街への補給に成功しました。
ここで国連が停戦を呼び掛ける国連決議を可決、双方はこれを受け入れ6月11日より4週間の休戦となりました。
【第一次休戦】
この休戦中にイスラエル側は部隊の再編制を行いました。この時点でのイスラエル武装組織は、主力のハガナーの他にシュテルンやレヒなど複数に分かれており、指揮系統が一本化されていませんでした。そのためハガナーを中心にイスラエル国防軍を編成し、全武装組織の指揮系統を一本化することとしました。
しかし、これにイルグン(かつて存在したユダヤ人の武装組織)が反発し、ついには武器輸送船「アルタレナ号」を巡り6月21日よりイスラエル国防軍と戦闘となりました。(アルタレナ号事件)その後、イルグンは国防軍に制圧され、イスラエルは自軍の指揮系統の一本化に成功しました。次いでチェコスロバキアからアヴィアS-199戦闘機を中心とした武器が到着し、さらにM4中戦車もスクラップの名目で世界中から大量に入手・再生し、反攻の準備を整えていきました。
一方のアラブ側もアラブ連盟がヨルダンのアブドゥッラー1世に全アラブ軍最高司令官の地位を与えるも、ヨルダンの影響力を恐れた各国の思惑から指揮系統の統一化は成功しませんでした。
【第二次休戦・戦闘再開】
停戦終了の7月9日、イスラエル国防軍はアラブ軍へ反攻を開始、戦闘が再開されました。これに対し国連は再び停戦決議を可決、7月18日から第二次休戦が行われました。しかし、この停戦は小競り合いが止まらず消滅し、全面的な戦闘が再開されていきました。
第一次停戦期間中に再編成を行い、軍備を増強したイスラエル軍は強力であり、アラブ側を各地で撃破していきました。特に中古の戦闘機によって制空権が確保されました。この戦闘機のパイロットは第二次世界大戦で米国、英国の軍人として戦った経験のある軍人でした。
その一方で、9月17日にスウェーデン赤十字総裁のフォルケ・ベルナドッテがエルサレムでユダヤ人組織・シュテルンに暗殺される事件があり、国際世論がイスラエルに厳しくなる面もありました。
1948年12月にイスラエル軍は南部ネゲブ砂漠で攻勢に出て一時シナイ半島に侵攻しましたが、ここでエジプトを影響圏としていた英国の警告を受けてそこより撤退しました。
【停戦協定】
1949年1月から、戦争に疲弊した各国はラルフ・バンチの仲介で休戦交渉を開始し、2月23日にイスラエルとエジプトの休戦協定が結ばれたのをはじめとして、7月までに各国と停戦協定が結ばれました。
パレスチナ地域のうち、大部分をイスラエルが獲得しましたが、停戦時にエジプト軍が保持していたガザ地区はエジプト領になり、ヨルダン軍が保持していたエルサレム旧市街を含むヨルダン川西岸地区は、12月に部分的なパレスチナ人の賛同とトランスヨルダン議会の決議により、トランスヨルダン領に編入され、国名をヨルダン・ハシミテ王国に変更しました。この時に確定した国境線はグリーンラインと呼ばれ、現在のイスラエルとパレスチナとの境界線として国際的に認知されています。
聖地エルサレムは旧市街を含む東部をヨルダン、旧市街を含まない西部をイスラエルが領有して、中間を国連が監視する非武装中立地帯としました。しかし、嘆きの壁はヨルダン統治下になった東側の旧市街にあり、嘆きの壁へ巡礼することができなくなった正統派ユダヤ教徒の不満は募りました。
一方、この戦争の過程で戦場となったパレスチナの地から多数のパレスチナ人住民がパレスチナ難民としてヨルダン、レバノンなど周辺地域に流出し、この後の大きな問題となります。また、パレスチナ戦争(第一次中東戦争)のアラブ側の敗北はアラブ諸国に深刻な影響を及ぼし、まず、1952年のナセルらによるエジプト革命が勃発します。
【エジプト革命】
エジプトでは、第二次世界大戦後もムハンマド・アリー朝のエジプト王国が続いていました。1948年、パレスチナにイスラエルが建国されたことに対して、他のアラブ諸国と共に軍事行動を起こしましたが、そのパレスチナ戦争で大敗北を喫してしまいました。
ファルーク国王は王制批判が高まる中、反英の姿勢に転じていたワフド党を起用して国民の支持を高め、権威の再建を図りました。ワフド党はスエズ駐留の英国軍を挑発しましたが、反英蜂起に失敗し、信望を無くしていきました。また、ワフド党は特権層や大地主の支持を受けており、その権力は次第に腐敗し、王制は民衆の支持を失っていきました。
そのような中、1949年にナセルら軍の青年下士官が結成した自由将校団は、軍の中に次第に支持者を拡げていきました。彼らはエジプトの改革の指針として六原則を立てました。
①帝国主義の終結、②封建主義の排除、③独占的資本主義の阻止、④社会公正の実現、⑤強力な軍隊の創設、⑥健全な民主政治の復活。
1952年7月23日、ナセルの指導するクーデターは、そのシナリオに基づいて計画通りに実行されました。将校たちは首都カイロをはじめ、各地の主要な拠点を制覇し、数時間後にはエジプト全土を手中に収め、兵士二人の死者があったものの、軍と国王側の大きな抵抗もなく、ほぼ無血にクーデターを成功させました。軍事拠点を制圧した自由将校団は、続いて諸官庁や王宮を占拠しました。将校らはクーデターの成功を確認すると、それまで計画の蚊帳の外に置かれていた名目上のリーダーであるナギブを軍本部に迎えました。
26日朝、将校らはアレクサンドリアに滞在するファルーク国王に国王退位と国外追放の最後通牒を突きつけ、抵抗する術のない国内はイタリアに亡命、この時は王位は1歳に満たない息子に託されました。
9月には農民の要求が強かった農地改革を実行しました。旧体制を牛耳っていた大土地所有者の権力基盤を崩す目的でしたが、改革は比較的穏健で、接収された土地は全農地の約10%にとどまり、しかも政府の再建で補填されました。しかし、王族の土地や財産は賠償なしに没収となっています。
1953年1月から「革命評議会」が設置され、ナセルら自由将校団は直接的な革命に乗り出しました。腐敗していたワフド党などの政党活動を禁止します。また、当初は友好関係にあったムスリム同胞団と共産主義勢力とも一線を画し、次いで非合法化しました。さらに同年6月、ファルーク前国王の息子ファードが王位承継を否定し、ここにムハンマド・アリ王朝は廃止されて、エジプトは共和国家となりました。
1953年6月18日にエジプト共和国が樹立され、ナギブが大統領に就任、ナセルは副首相となりました。
エジプト革命は中東における王制打倒、民族主権の確立をもたらした最初の革命であり、アラブ世界に大きな衝撃を与え、イラク革命などに飛び火していきます。
また、ナセルはナギブを失脚させて首相に、そして大統領に就任し独裁的な主導権を握り、スエズ運河国有化などを断行して「アラブの英雄」、第三世界のリーダーの一人として脚光を浴びることになりました。
1956年7月26日、ナセルはスエズ運河国有化を宣言、世界に衝撃を与えました。これがスエズ戦争(第二次中東戦争)へと続くことになります。
続く
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