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アフリカの歴史と今について知る

【黒人奴隷貿易】

黒人奴隷貿易は、16世紀以降、ポルトガル、スペイン、英国、フランスなどの国家的事業として行われ、アフリカ大陸各地から多くの黒人(アフリカ人)が南北アメリカ大陸・西インド諸島に送られ、現地の鉱山や農園で奴隷として使役されました。彼らの人権は認められず、奴隷商人によって商品として売買されました。その背景には、スペイン・ポルトガルの新大陸植民地でインディオを酷使したため、人口が減少し、労働力が不足したことがあげられます。

大西洋奴隷貿易は、主としてアフリカ西岸(ギニア湾沿岸)から多くの黒人が捕らえられて奴隷として西インド諸島・中南米に送られました。奴隷貿易はヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸を結ぶ三角貿易の一辺をなし、中間航路といわれましたが、奴隷船の過酷な環境によって多くの黒人が洋上で命を落とし、またしばしば暴動が起こりました。

黒人奴隷は安上がりな奴隷労働力として鉱山、砂糖・綿花・ゴム・コーヒーなどのプランテーション(大農園)で酷使され、次々と供給されました。まず、ブラジルでは砂糖プレンテーションが作られ、後に西インド諸島(ハイチ、キューバ島など)に広がりました。北米大陸ではヴァージニアのタバコや藍のプランテーションが作られ、南部全域では綿花プランテーションが広がりました。それらはアメリカ合衆国が独立してからも黒人奴隷に依存しながら発展しました。

19世紀に入ると、英国で黒人奴隷貿易と奴隷制度に対する人道的な立場からの批判が強まり、ウィルバーフォースらの運動によってまず奴隷貿易禁止(1807年)が実現し、さらに奴隷制度廃止(1833年)そのものが実現しました。アメリカ合衆国では、19世紀中頃に、北部工業地帯では黒人を賃金労働力として購買力をつけて経済発展させようという志向が強まり、南部綿花プランテーションでの黒人奴隷労働維持の志向と対立するようになり、奴隷制が一つの争点となって南北戦争(1861年から65年)となりました。その過程でリンカーン大統領が奴隷解放宣言(1863年1月)を行い、合衆国における黒人奴隷解放は実現しました。その前後にラテンアメリカ諸国でも次々と黒人奴隷は解放されました。最も遅れたのがブラジルで1888年でした。

しかし、アメリカ合衆国に於いては黒人には経済的に自立する基盤が与えられなかったため、貧困が続き、そのため白人の差別感情はなくならず、その後も真の黒人解放、平等化を目指す運動が主に黒人の側から起こりました。ようやく第二次世界大戦後の公民権運動によって黒人差別は法的に否定されましたが、その後も米国の人種問題はなおも深刻な国内問題として続いています。

【帝国主義諸国によるアフリカ植民地化】

1870年代の英国によるエジプトの支配に始まり、フランス、ポルトガル、ドイツ、イタリアによって帝国主義的分割が進められ、ベルギー国王のレオポルド2世によるコンゴ領有を機に、1884年から85年にドイツのビスマルクが提唱したアフリカ分割に関するベルリン会議が開催され、列強の利害が調整されました。ベルリン=コンゴ会議とも呼ばれるこの会議は、特にベルギー国王レオポルド2世のコンゴ支配を承認するかどうかが主要な案件でした。参加国は14カ国で、当時アフリカに野心を持っていた、英国・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・米国・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国でした。この中にはアフリカ人の代表は入っていません。アフリカ人の三かしていない「国際」会議でアフリカの分割が行われ、分割に当たっての「原則」が話し合われました。

「当事者不在」の極致ですが、植民地支配を当然としていた国々は問題を感じてはいませんでした。会議は100日間以上にわたって続き、レオポルド2世の要請した国王によるコンゴ支配も承認されましたが、翌85年2月に全7章、38条からなるベルリン条約(コンゴ盆地条約の部分を含む)を締結して終了、そこではコンゴ川・ニジェール川流域の自由貿易などと共に、今後のアフリカ分割の「国際ルール」が取り決められました。

最も重要なことは、第6章においてアフリカ植民地化(アフリカ分割)の原則が合意されたことで、それは次のような2点からなります。

①占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交、交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
②ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権を持つという先占権を持つ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)

これはアフリカ現地の人々の意思は関係なく、ヨーロッパ各国がアフリカの土地と人間を勝手に区画して統治できるという、一方的なものであり、このベルリン会議の結果としてヨーロッパ列強のアフリカ分割を加速させることになりました。

19世紀末にはアフリカ縦断政策をとる英国とアフリカ横断政策をとるフランスが遭遇してファショダ事件となりました。この時は全面対決は回避されましたが、アフリカにおける主導権は英国が握り、英国は南アフリカ戦争でアフリカ南端のケープ植民地を拡張し、南アフリカ連邦を成立させました。

このようにして、1900年頃までにはアフリカ全土はエチオピアとリベリアを除いて列強により分割されてしまいました。以下は列強がそれぞれ領土としたアフリカの地域です。

・イギリス:エジプト・スーダン・南アフリカ・トランスヴァール・オレンジ・ローデシア(現在のザンビア、ジンバブエ)・ケニア・ナイジェリア・ゴールドコースト(後のガーナ)
・フランス:アルジェリア・チュニジア・モロッコ・マダガスカル・サハラ(西アフリカ)・ギニア・赤道アフリカ・フランス領コンゴ
・ドイツ:ドイツ領東アフリカ(タンガニーカ・ルワンダ)・カメルーン・トーゴ・南西アフリカ(ナミビア)
・ベルギー:ベルギー領コンゴ
・イタリア:リビア(トリポリ・キレナイカ)・ソマリランド・エリトリア
・ポルトガル:アンゴラ・モザンビーク・ギニアビサウ

ポルトガルのアフリカ侵出は、ヨーロッパ諸国で最初に行われ、奴隷貿易拠点とインド航路の中継基地が建設され、さらに内陸部への植民地化を進めました。

【アフリカ諸国の独立】

19世紀末までのヨーロッパ列強によるアフリカ分割の中で、第二次世界大戦後に独立国だったのは、エチオピア(1936~42年はイタリアに占領されたがそれ以外は独立国であった)、リベリア(1847年、アメリカから解放奴隷が戻って建国した)、エジプト(1922年、イギリスから独立)だけでした。

第二次世界大戦後、アフリカ各地で独立運動が開始され、まずリビア(1951年独立した王国)、スーダン、モロッコ、チュニジア(この3国は1956年独立)、ガーナ(1957年)、ギニア(1958年)が50年代末までに独立を達成しました。

1960年、アフリカの17ヵ国(当初は16ヵ国)が一斉に独立を達成したので、その年を「アフリカの年」と言います。この時独立したのはフランス植民地であったところが多く、ド=ゴール大統領がアルジェリア戦争に押されて、植民地の独立を認める方針に転換したことが大きな理由です。その年に独立した17カ国は、セネガル、モーリタニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ダホメ(現在のベナン)、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ、マダガスカル(以上旧フランス領)、ナイジェリア、ソマリア(旧イギリス領)、コンゴ(旧ベルギー領コンゴ。後にザイール、現在のコンゴ民主共和国)でした。

なお、マリとセネガルは当初マリ連邦として独立したが、同年中に分離しました。したがって1960年中に独立したアフリカ諸国は17ヵ国となります。

1960年10月、国際連合総会において、ガーナのエンクルマ大統領が演説、アフリカの独立への支援と、南アフリカにおけるアパルトヘイトの不当を訴え、大きな反響を呼びました。それを受けた国連総会は、同年12月の総会で「植民地独立付与宣言」を反対票なしで可決。そこではすべての植民地支配は人権の侵害であり、すべての人々は自己決定権を有すると宣言しました。当時、植民地を所有していたアメリカ合衆国・イギリス・フランス・ベルギー・ポルトガル・スペイン、及び白人至上主義を採っていた南アフリカの7ヵ国は棄権ています。

これらのアフリカ諸国は、第三世界を形成し、東西冷戦での米ソの対立を牽制する力となり、一時期はアジア=アフリカ会議や非同盟諸国首脳会議を通じて、国際社会での発言を強めました。また、独立したアフリカ諸国が国際連合に加盟し、一国一票の国際連合総会で多数を占めるようになると、米ソなどの大国もその力を無視できなくなりました。
 
アフリカ諸国の国際的な協議機関の形成も進み、アフリカ統一機構(OAU)が1963年には発足しました。アフリカ諸国は、黒人奴隷貿易や植民地支配という長い屈辱の歴史を克服すべく、さまざまな困難の中で、模索を続けています。

アフリカ植民地の中で最も独立が遅れたのは第二次世界大戦後もサラザール、さらにカエターノによる独裁政権が続いていたポルトガルのアフリカ植民地でした。1960年代に、ポルトガル領のギニアビサウ、アンゴラなどでも激しい独立運動が始まりましたが、本国の独裁政権によって厳しく弾圧されましたが、植民地戦争の継続は独裁政権の内部矛盾も深めることとなり、1974年に独裁政権が倒されてポルトガルの民主化が進んだことによって、ようやく独立承認の動きが実現しました。1974年9月の西海岸のギニアビサウをかわきりに、アンゴラ、東海岸のモザンビークが独立を達成しました。

現在までにアフリカのほとんどの地域が独立を達成していますが、最大の問題は、独立に際して、植民地時代にヨーロッパの列強によって人為的に引かれた境界線がほぼそのまま残されたことです。従って、実際の部族の分布とは一致しておらず、独立後の国境紛争、部族紛争が絶え間なく起こる事となった点です。
 
また、独立後の経済基盤の脆弱さ、インフラストラクチュアの不備、教育の遅れなどのために社会不安が続き、そのために内戦が絶えず、武力を背景にした軍事独裁政権が生まれやすく、民主的政治体制を維持することが困難でした。
 
そのため、形式的には独立を達成したものの、経済支援に名を借りた欧米資本主義による間接支配と言う形の、新植民地主義が残りました。またアフリカ諸国の中に石油などの地下資源に恵まれた富裕国と、モノカルチャーに依存する貧困国との格差が広がってもいます。

【新植民地主義】

第二次世界大戦の後の1950年代~60年代にアジア諸国やアフリカ諸国が独立したことによって植民地問題は終わりを告げ、現在は旧来の意味の植民地はほとんど姿を消し、「植民地主義」が否定されたかに見えます。しかし、南北問題とか南南問題という形で旧植民地国の開発の遅れや経済不安、財政不安、民族対立からくる政治不安が続いており、先進国が保護や援助という形で間接的な支配を維持しようという「新植民地主義」(ネオ=コロニアリズム)が台頭しました。
 
新植民地主義とは、第二次世界大戦後に多くの植民地が独立を達成するという情勢に応じて、旧植民地支配国側に起こってきた新しい考え方で、発展途上国に対して従来の直接的な支配にではなく、政治的には独立を認めながら経済的な支援や軍事同盟などを通じて関係を維持し、実質的な支配を続けようとする思想です。その背景には国際的資本(多国籍企業)が、発展途上国の資源を確保し、また市場を拡大する意図があった。1950年~60年代のアジア・アフリカの民族運動は、このような新植民地主義に対する反対運動として継承されました。また、先進工業国と発展途上国間の格差の広がりに伴う問題は、南北問題として広く認識されるようになったのです。

【新の独立へ向けて】

アフリカは今、真の独立へ向けて動き出していると言えるでしょう。西アフリカでは相次ぎ、フランスが追い出されています。また、ロシアはアフリカとの関係を深め、2024年1月からはエチオピアがBICSへの加盟を果たしています。今後、人口も増えてき、経済的にも上向いてくると思われます。まだまだ貧困との戦いは残っており、食糧危機などもありますが、グローバル社会の中で存在感を高めていくことでしょう。


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