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鎌倉ほのぼの散歩 卒業おめでとう回【鶴岡八幡宮】

 いるのかいないのか実態は定かではございませんが、鎌ほのファンの皆様、大変お待たせいたしました。

 さて。
 この春ご卒業される、あるいはもうご卒業を迎えられた皆さま。
 まことにおめでとうございます!

 3月も半ばを過ぎ、受験も終わり、進むべき方向性がおおむね定まったころではないかと推察いたします。今は新しい学校や生活に向けて、様々な準備に取り掛かっていらっしゃることと思います。

 この「卒業おめでとう回」以後は、また以前の鎌ほのに戻る予定です。

 来年度に受験を迎える方は、いよいよかと身を引き締める時期でもあるかと思います。

 次回以後は、受験合格祈願に勤しむ「みらい」と「空ちゃん」とともに、また鎌倉散歩にてくてくお付き合いいただければと存じます。

 さて今回は、鎌倉の超メジャー観光地、鶴岡八幡宮つるがおかはちまんぐうのお話です。

 もうね、HPからして大変立派でございます。立派過ぎて動画多用のため、どうしてもURLの状態でしか表示できない模様。
 コチラです👇

https://www.hachimangu.or.jp/

 鶴岡八幡宮の由来や縁起などにつきましては、上のサイトを読んでいただければと思いますが…
 …サイトに飛ぶのが面倒な方のためにざっくり説明しておきますね(とか偉そうに言って別に詳しいわけではありません。ちょっと調べたことを書いておきますね)。

 源頼朝みなもとのよりともから遡ること100年くらい前に、平将門たいらのまさかどの子孫平忠常たいらのただつねの乱を制圧するため朝廷から派遣されたのが源頼信みなもとのよりのぶ源頼義みなもとのよりよしという親子でした。

 その前に平直方たいらのなおかたという人が追討史として討伐中だったのですが、長期間膠着してしまったので、新たに頼信よりのぶ頼義よりよし親子が坂東に派遣されたのです。

 ちなみに頼信よりのぶ頼義よりよしは、頼朝よりとも高曾祖父こうそうそふ(ひいひいひいお爺さん)と高祖父こうそふ(ひいひいお爺さん)にあたる方です。高曾祖父は空条徐倫にとってのジョナサン・ジョースター、高祖父はジョージ・ジョースターにあたります…と言ってもかえってわかりにくいか。笑

 彼らは河内源氏(かわちげんじ)と呼ばれ、河内国(現在の大阪府の一部)に拠点を置いた清和源氏の流れをくむ一族です。家紋は「笹竜胆ささりんどう」。これは鎌倉の神社仏閣のいたるところで見ることができますし、鎌倉市のマークとして採用されているのでマンホールの蓋なんかにもついてます。ただ「鎌倉(清和)源氏のマーク」という学術的根拠はないんだとか(鎌倉氏HPより)。

 さて、頼信・頼義さん親子の子孫は頼朝さんに繋がる流れと、武田信玄に繋がる武田氏や、新田氏、足利氏、木曽義仲に繋がる流れへと別れていきます。みんな頼信さんから始まった親戚筋というわけです。

 頼義さんとその息子源義家みなもとのよしいえさんが「前九年の役」、義家さんが「後三年の役」を平定し、坂東を本拠地として「武家の棟梁」と称されるほど攻勢を極めたのですが、保元・平治の乱によって衰退していきます。

 もともと頼信さんは、かの有名な藤原道長に仕えた「四天王」のひとり。当時は関東地方にしょっちゅう朝廷から軍人貴族である「つわもの」が派遣されていたので、主従関係によって在京のまま坂東に所領を持ったり、坂東に居住したりと色々だった様子。なので坂東には、桓武平氏と清和源氏の子孫が入り乱れて所領を持っていたのですね。

 ちなみに「鎌倉殿の13人」に出て来る北条氏は、平忠常の討伐に遣わされた平直方の子孫と標榜しているそうです。いろんな因縁も入り混じるわけですね。

 観光ガイドには、平忠常の乱の後に、頼義さんが京都から石清水八幡宮を勧請かんじょうして、由比ヶ浜に由比若宮を構えたのがはじまり、と書いてあるのですが、Wikipediaでは「前九年の役後」とあります。「平忠常の乱」は1028年あたりの話なので、「前九年の役(1051年~1062)」の後というのが正しいのかもしれません。まあ大雑把に言えばどちらも後、ですが。笑

 ともかく戦勝を祈願し果たされたということから、源氏の氏神様として、頼朝さんが鎌倉に入って、今の場所にお祀りしたようです。「鶴岡」というのは、由比ヶ浜に勧請した時の地名が「由比郷鶴岡」という場所だったから。

 鎌倉殿が厚く信仰した八幡宮にはその後「神宮寺」というお寺が建立され、多くの僧房も建てられ神仏混交のお社となり、江戸時代には観音堂や薬師堂などが建てられましたが、明治に入って廃仏毀釈の動きが高まり、仏堂や様々な仏具が破壊されました。

 ただ、源頼朝が始めた「放生会ほうじょうえ(捕らえた生き物を放ち功徳を施す)」は、今も「例大祭」や「鈴虫放生祭」として残っているようです。「放生」については以前、「駐妻記」でもタイにある風習だということを書いたことがあります。仏教の戒律のひとつです。

 ところで「八幡宮」の「八」の字は、鳩が二羽向かい合っているような形になっています。

 これがどうして「鳩」かというと、平安時代に宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ八幡大神を勧請した際、道案内をしたのが白い鳩だったことから、八幡宮では鳩が大切な神様の使いと考えられているからのようです。

 それが、鳩サブレ―になったという。

 この「鳩」。源頼朝の時代には「吉兆」とされたものの、それ以後はあまり良くない「凶兆」としても登場するとか。まあたしかに幕府が滅亡に向かっていく流れの中では、どんなに鳩が頑張っても難しかったかもしれませんね…

 そんなわけで、重要文化財も山盛りにある「鶴岡八幡宮」には語ることが尽きないわけですが、長くなってもきましたので、この先は、私が鶴岡八幡宮で見聞した印象的な出来事を。

 まず最初に結婚式。

 これは結構頻繁に目にすることができます。日本有数の観光地でもある神社で執り行われる結婚式は、当然のことながら注目の的です。古都観光にはよくある人力車などに乗って登場することもあり、境内を歩いていたり、写真撮影などをなさっている場面によく遭遇します。外国の方々も「Oh~」とか言いながらカメラに収めていらっしゃいます。

 この結婚式、鶴岡八幡宮の階段を上る手前にある「舞殿」というところで執り行われます。実際に結婚式をしているところも、ですから遠くから見ることができますが、あまりじろじろ見ても失礼かなとみなさん遠巻きにご覧になっている様子です。

 この「舞殿」は、静御前が義経を慕い、頼朝と政子の眼前で舞を披露した若宮廻廊跡に建てられたもの。

 これ…いいんかい?
 静御前と義経はめったやたらに悲恋ですが…?

 いやいや。おそらくは舞をクールに眺めていた頼朝と政子は円満(かどうかわからないけれど)夫婦。睨みをきかせた夫婦。凄みのある夫婦。あやかるならこっち。ということかもしれません。

 ともあれ、こんな風に歴史ある場所での挙式は、新しい門出を迎えるおふたりにとっては、生涯の思い出になるのではないかと思います。

 もうひとつは、流鏑馬やぶさめ
 駆ける馬の背に乗ったまま、矢を射て的に当てる神事です。

 これは、以前偶然に「流鏑馬の日」に参拝してしまった(知っていたら行かなかったかもしれない、混むから)ために「チラ見」したのですが、

 興奮します。

 私たちはあの日、家族で「鎌倉でも行くか―」とふらっと行ったので、当然場所取りなどもしているはずもなく、流鏑馬をしっかりと見られる位置には近づくこともできず、見たのは流鏑馬の前に執り行われる神事のみ。それも人垣の後ろから、背伸びして。

 装束に身を包んだ宮司や狩装束の武士たちなどが列をくんで舞殿に向かい、神事を執り行う様子は、実に壮観です。矢などを奉納し、祝詞をあげるなどの儀式が粛々と行われたのちに、厳かに流鏑馬が始まります。しかし残念ながらそこは、しっかりと事前に足を運び、場所取りをして長時間待たないと観られないもの。私たちは、奉納される神馬の白馬を眺めたりして、ほんの少し流鏑馬の興奮の御裾分けをいただき、ちょっと覗けて得したような、観られなくて損をしたような気持ちで帰宅したのでした。

 いつかは生で観て見たい、流鏑馬神事です。

 最後に、御神木のこと。
 2010年3月、本殿に向かう階段の横にあった銀杏のご神木が、強風により倒伏しました。

 樹齢1000年と言われた大銀杏おおいちょうの木。源実朝みなもとさねともさんが暗殺されたときに公暁くぎょうさんが身を隠していたとされる木が倒れたということで、鎌倉の方々は歴史の証人を失ったような寂しさを感じられたようです。

 現在はひこばえ(樹木の根元から生えて来る若芽。「子」銀杏)が、隣に移植された御神木(「親」銀杏)とともに成長しているとのこと(サイトより)。幹の一部は鎌倉文華館 鶴岡ミュージアムカフェ&ショップ内で、間近に見ることができるそうです(こちらもサイトより)。

 鎌倉の歴史を感じるためには外すことのできないのが「鶴岡八幡宮」です。

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