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freestyle 14 じわり

 アイコンを変えたので、以前からの下書きを引っ張り出してきてまで、少し頑張って連続投稿している。やっぱり、変えたばかりの時期というのは大事だ(と勝手に思っている)。だから今は、せっせと読み書きしている。

 noteを読んでいると、それほど頻度は高くないが、記事の印象と実際の性別(これもSNS世界上の、だが)がズレることがあって、その意外性が面白い。性別だけではなく、年齢や世代に関しての勘違いもある。

 故意ではなく自然な振舞いから滲み出るものに、いいも悪いもない。それはそのまま、その人らしさとして私の心に映る。

 「そのひとそのもの」がじわりと現れるところに人が引き寄せられるのだとしたら、文章にはもっとも「じわり」が出て来るのではないだろうか。 

 実際、テレビや映画でしか観たことのないアーティストさん達が寄稿した文章は、話し言葉のインタビューなどと同様かそれ以上に強い印象をもたらすことがある。

 三十年ほど前、ユング心理学の本を読み漁っていた頃によく登場したのが「アニマ」と「アニムス」という、人の心の中にある女性性、男性性の象徴だった。理想の異性のイメージと言われるが、主に夢の中(無意識の象徴)に登場するという考えがとてもユニークだと思っていた。

 ユング心理学は一時期大流行した。心理学の世界も日進月歩。流行り廃りがあるが、当時大人気だった河合隼雄先生の著書は、今読んでも色あせない。例えば性差に敏感な今の時代には『とりかえばや、男と女』などはお勧めだ。アニマとアニムスについても詳しく書かれている。

 文章を読んで性別を間違うたび、私はこの「アニマ」と「アニムス」を思い出す。人の心には生まれ持った性とは別の性も住んでいる。そう考えると、人生が豊かになる気がする。

 「こころ」とは「人間」とは、複雑で豊穣なものだと思う。いろいろな存在が、心の中にいる。リアルな人も、歴史上の人や物語の中の人物のエッセンスも、象徴的な存在も。自分の中ではみな自分だ。そして表出する文章には、その時存在感が強いものが出てしまう。子供の心が強く出ていたり、理性的だったり、母性的だったり。どれにもいい面・悪い面がある。それが、書く(発信)側、読む(受け取る)側、双方にいる。

 本を読むのが自分を育てることだと言うのは、そういうことなんじゃないかと思う。本を読むことで、他人の智慧やエッセンスを咀嚼し消化し自分の一部として吸収することができる。

 自分の本質的なところが女性に近くても男性に近くても、生まれた性別がどうでも、どれも自分で、どれも大切。相手にとってもそう。そう思えば、いたわりや思いやりも自然に湧いてくるんじゃないか、と思っている。自分へのいたわりも、他人への思いやりも。

 ところで私と私の文章はどのように見られているのだろう。

 noteのみなさんは自己紹介がとても上手だと思う。自分の興味や関心、やってきたことを通して自分というものをちゃんと表現している。それに比べ、私のプロフィールは「人物紹介」というよりは「心象風景」だ。

 身バレが怖いので「あえて」の部分も、もちろんある。ただの主婦に語るべきことが何もないのも本当だ。でもやっぱり結局は、文章からの「じわり」を期待しているのだと思う。

 最近は、母親然とした目線からの子供の話も多いし、アラフィフ、どころか時には年齢を明記さえしている上、更年期ネタばっかり書いている。コメント欄にはプロフィールには載せないことを書くこともあるし、オタクなこだわりを熱く語ったりもしている。

 「じわり」どころか、自分が思う以上に、案外バレバレなんだろうな、と思う今日この頃だ。







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