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Review 10 スガスガ

 夢中で本を読む、というのが至福の楽しみです。

 クリスマスの日に、ひさしぶりにそんな小説に出会いました。アリエルさんの小説です。

 noteの数多くの小説に目を留め、時折読ませていただいています。自分が読み書きする方にも忙しく、少しずつですが…。確かにnoteで長編小説を読むのは少し難しいのは確かです。ショートショートや短編が多くなるのがわかります。

 実際、noteの小説は、夢中で読んでいるとスキをするのを忘れていたり、次を待っているうちにnoteの流れに乗り切れず逃してしまったり、ということが度々あります。また、小説という創作物に対し、コメント欄にあっさりした感想を書くのが憚られ、完結まで待とうなどと躊躇ううちに機会を逃してしまう、ということも多いです。

 ただ、自分のnoteで感想を書きたい、という欲求が起こったのは初めてです。すでに完結していた作品だったということもあるかもしれません。ちょうどReview10本目で、noteの小説の中で何か書けないかと思っていたこともあり、こればかりは本当に「出会い」だなぁと思います。今回こそは、このタイミングを逃してなるものかと(笑)、すぐさま感想を書かせていただくことにしました。アリエルさん、いろいろと強引で不躾な感じになってしまってすみません。

 さて、その小説がこちらです。

 アリエルさんの小説の全文を読む前に、自己紹介に対してコメントを送らせていただいたのですが、アリエルさんからのお返事に「R15の小説サイトに書いていたがはじかれてしまった、noteは大丈夫だった」という旨のことが書いてありました。いったい、アリエルさんの小説がどれほどに「エロ」なのか⁉と思ったのですが―――。

 アリエルさんのコンテンツの説明にもあるように「エロなのにエロくないヒューマンドラマ」というのが真実で、R15の小説サイトさんはいったいどこをみてるんだろう?と思ってしまったのが本当のところです。

 そのサイトさんでは、きっと、中身や内容とは関係なく、世にあるSNSのように「単語」がAIで引っ掛かればバン(禁止・アカウント追放)するという、そういう方式なのではないかと思います。

 確かに星の数ほどの投稿作品に年齢制限をかけるにはそれしか方法がないのかもしれませんが、小説というのは表現・創作の最たるものです。日本における漫画文化には、ほぼ制御不能と思われる性表現が氾濫しているのに、AIによって良質な作品まで排斥されるというのには少々納得がいかないな、と思います。思いますが、その話はさておいて。

 『私の中のエロス』はだしぬけにこう始まります。

 「セックスが好き」
 本当にその一言につきる。

『私の中のエロス』Vol.1 自分の欲望と向き合う旅

 確かに煽情的な冒頭です。このオープニングは、かつて若き日に読んだ森瑤子さんの『情事』を彷彿としました。

 自分が、若さを奪い取られつつあると感じるようになると反対に、性愛に対する欲望と飢えが強まっていった。セックスを、反吐が出るまでやりぬいてみたいという、剥き出しの欲望から一瞬たりとも心を逸らすことができないでいた期間があった。

森瑤子『情事』集英社文庫kindle版

 アリエルさんの小説がエロくないとは言いませんが、いやまったく、普通のエロです。普通というか、上質なエロです。アリエルさんの小説を追放したというサイトさんも、その後の物語をちゃんと読めば、むしろ次世代への励ましとメッセージに満ちていることが分かったでしょうに、と思ってしまいます。

 エロスは人間の根源的な部分に関わる大きなテーマ。人間全体にも、個人にとっても、大問題です。昭和時代の文学には特に顕著ですが、文学とはエロスそのもの。時代が求める悩みというものが文学には反映するし、そして抑圧されているものが噴き出すのが文学です。

 このところ常々感じていたのですが、昭和の時代に比べ、ポリティカルに、あるいはジェンダーにと制限が加わり始めた昨今、逆に表現は自由さを失いつつあるのではないか、と思います。「性」という普遍的なテーマに、どこか、混乱を生じているのが今の世界なのではないかと思うのです。これはOK?それともNG?常にそんなジャッジを迫られている、というか。

 この時代が「自由」ではない?
 そんなはずはない、と思われる方もいるかもしれません。最近は、多様な性の問題がクローズアップされるようになりました。LGBTQIAの話題を始め、朝出勤前や夕ご飯の頃のニュースでも「生理」についての話題が出たりするのは、戦中戦後生まれの年配の方にとっては心のどこかがハッとすることがあると思います。それは隠さなければならないこと、恥ずかしいこと、人前で言ってはならないことだと、教育を受けた世代ですから、隔世の感を感ずることと思います。はしたない、と思う人もいるでしょうし、男性アナウンサーが生理用品について発言することを快く思わない方もいらっしゃるでしょう。

 自由ではない、という表現よりも、偏っている、と言うべきでしょうか。極化しているというべきかもしれません。メディアでオープンに性について語り合うことが善とされたり、本屋さんなどでは目をそむけたくなるような性的表現が用いられた漫画が平積みになっている反面、社会におけるコンプライアンス的な締め付けはきつくなっています。日本は特にその極化傾向が強いと思います。

 結局のところ人間というのは獣ですから、どうしても逃れることができない本能的欲望への懊悩があると思います。勝手な持論ですが、私は人間は結局「ホルモン」に支配された動物なのだと思っています。神がいるならホルモンなのではないかと思うくらいです。エストロゲンとテストステロンに翻弄され、またβエンドルフィンだのドーパミンだのに左右され、簡単に「操作」されてしまうのが人間だと思います。

 いるのかどうかわかりませんが、生涯、性に悩まずに済む人は幸いです。大なり小なり深く心に問題意識を抱えることそのものが人間的行為だと言えましょう。私にはこの小説は、古来普遍的な問題で、できるだけ人が目と顔を背けている問題に、真正面から切り込んでいるものに感じられます。哲学的とも倫理学的とも言えます(倫理的・・・ではないかもしれませんが)。むしろ清々すがすがしい小説だと思います。

 『私の中のエロス』の主人公は北米に住む三十代の既婚女性。現地の男性の夫と、子供が男女ひとりずつ。ある時ふとしたきっかけで出会った男性との情事がきっかけで、自分の中の欲望と対峙し、性の世界への冒険へと旅立ちます。

 彼女は快楽を追求するために本能に忠実に従うように見せかけて、むしろ「自分自身」や「人間」に対する探求心や好奇心が強く勝って、行動に出ているように思います。その先にあるのが底なしの沼なのか、それとも悟りに近い解放なのか、それが知りたいと思っているようです。

 彼女のスタンスに私は『ジョジョの奇妙な冒険第六部ストーンオーシャン』の徐倫を思い出しました(名前も倫がついてるし)。

 ジョジョ第六部の舞台はフロリダ。冒頭のシーンは留置所です。妙な物音とブツブツ言う声に拘留中の女性たちが気づきます。「もうダメよ。おしまい。あたしもう生きていられない」。そう呟いてガンガンとベッドに頭を打ち付ける徐倫。何のことかと問う隣の牢にいるエルメェスに徐倫は自分のマスターベーションを男の看守に見られた、と告白するのです。大笑いするエルメェス。徐倫を蔑みあざける他の囚人に徐倫は言います。「あんた、エッチ関係でここに捕まったでしょ。(中略)……よーく観察すると、印は肉体に現れてる」

 2000年の少年漫画の、冒頭です。作者の荒木先生は「そろそろ女性が主人公でもいいか」と徐倫を描くのですが、まずしょっぱなにこの会話というのは、正直度肝を抜かれます。このワンシーンで一瞬にして徐倫は人の心を掴んでしまいます。登場人物だけではなく、読者の心も。

 『私の中のエロス』の主人公と徐倫、ふたりに共通するのは、「欲望」に非常に正直であり、そのいっぽうで「欲望」を冷たく見つめる視線がある点です。観察眼、と言ってもいいかもしれません。その客観性がふたりを「俗」よりも「聖」に近づけていると思います。一歩間違うと、俗にまみれて救いが無くなる物語を救っているのがふたりの精神だと思うのです。直感と情感で生きているように見えて、実はきわめて冷静に、「私」=「倫」はエロスに、徐倫は闘いサバイバルに向かっていきます。

 この『私の中のエロス』はとても実験的な小説だと感じます。主人公の女性が「倫」という名前と自らの身体を使って得られる様々な人物との出会い、体験を通して、人が心の奥底に隠している性をめぐる問題を、ひとつひとつ丁寧に吟味しているという印象です。女性器・男性器問題や乳がんと豊胸、性自認と嗜好性、中絶問題などなど、取り上げられているテーマがそれぞれ深すぎて、その時々にいろんな感想を持ちましたが、それを上げていくときりがないし、ネタバレしてしまうのでここはぐっと我慢。

 主人公の女性=「私」の設定は作者さんのプロフィールに似ていて、それがリアリティを持って「秘密の告白」を印象付けます。そして「倫」という人物は主人公の「私」とも少し違う、パラレルな「私」でもあると思います。

 タモツとの関係は、一歩間違うと高級娼婦と美人局みたいな感じになりそうなところを、ギリギリのところで「倫」の純粋な使命感のようなものに救われていると感じます。

 実際、夫と子供がいる「倫」のしていることは相当にリスキーなことです。ちょっとしたことで何もかもを失いかねない危うさがあるし、「私」=「倫」もそれを承知しています。正当化もしていないし、とがは自分ひとりが負うという覚悟を持っていますが、彼女が元の生活に戻っていけたのは運が良かったといえます。

 そもそも、リアルな設定の中で語るフィクションというのは、ノンフィクションや完全な想像世界のフィクションより難しいと思います。リアルな世界と、創作世界をどのように織り交ぜるかが、小説のかなめだと思いますし、エロのシーンを上手に書けるというのは才能だと思います。この『私の中のエロス』はそのブレンド具合が絶妙だと思います。

 特に印象に残ったのは「渇望」と「亡霊」、そして「消滅」です。

 「渇望」では、生あるものにとって無間地獄のような問題に直面した相手に「倫」は誠心誠意を尽くそうとします。とても痛くて辛く、切ない物語でした。

 「亡霊」は、最初のきっかけとなった運命の男性のKさんの、理性が勝る振舞いと「私」の感情の対比が印象的です。「私」とKさんとの間にあった出来事に対する互いの思いの違いは、逆だとかなりよろしくないことになったでしょう。罪の意識を抱えて生きてきたKさんと「再現トレース」を望んでいた「私」。同じ上書きするにしても違う上書を望んだふたりでしたが、「私」の冒険の物語の終わりに相応しい結末だったと思います。

 そして「消滅」は、この小説の「私」が最も言いたいこと、のちの世代に対し自らの体験を通して伝えたいこと、それが詰まっています。私はこの最終回に非常に共感しました。全編を通して「倫」の体験は「私」にとってセラピーでもあったんじゃないか、と思います。

 アリエルさん、素晴らしい作品をありがとうございます。挿絵もご自身で描かれていて、noteで発表されている他のイラストレーションもとても素敵です。『私の中のエロス』、noteだからこそ読めた小説なのかもしれませんが、noteだけで読むのは勿体ないです。出版されたらいいのになぁという密かな願いを持っています。

※一応念のため「すがすが」は「清々」。すがすが‐と、という古語です。前首相のことではありません。










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