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母親視点の映画「怪物」考察

カンヌで話題の「怪物」の映画を見てきました。

重厚な作品で、圧倒されました。

(以下、ネタバレになるかもしれませんので(核心のネタバレは書きません)、読みたくない方はすみません、避けてください)

何か筋の通ったストーリーがあるというよりは、メッセージを伝えるためのエピソードや描写、キーワード、小道具、セリフが重ねられ、散りばめられ、見終わった後、明確なメッセージがずしんと心に置かれて残っているような作品でした。

自分が目にしている人の言葉や行動は、一面でしかない。
言葉や行動は目に見えるから、真実かのように思えるし、つい信じるべきものとしてすがりたくなってしまうけれど、それは一面からの真実でしかない。
全貌は隠されたところにあって、それを誤解したまま突き進むと、悲劇(怪物)を生むことがある。

宣伝から想像して、いっぱい泣くかなぁと思っていましたが、映画を見ながらはまったく泣きませんでした。ただひたすら、重いメッセージに圧倒された。
終わって、こんな映画だった、と夫に電話で話しているとき、
主人公が小学5年生の男の子2人だったので、自分の息子と重ねて話して、「息子のことを、本当に私は分かっているのだろうか」と自分で口にした瞬間、実は分かっていないかもしれない、という不安、恐ろしさに、思わず涙が出ました。自分の中にも潜んでいる怪物の影に気付いてしまったからだと思う。
普段、私は子供のことを完全に理解している気で、ああしろこうしろと強く言っているけれど、見えていないものがあるかもしれない。それなのに強く言うことで、子供を歪ませている可能性があるかもしれない。「自分はすべてを分かっていないかもしれない」ということを、絶対に忘れてはいけない。

映画の冒頭のシーンで出てくる、学校側のことなかれ主義、保身に、とてもいら立ちを感じました。私は、もともと"組織の不合理"に人一倍怒りを感じるタイプの人間です。でも、その背後には、いろいろな事情や理由があった。そのことを知った時、「怒る」という態度は、真実を理解しようとせずに、自分が見えているものだけに対して、自分の正義感をぶつけているだけ。自分は正しい人間だ、とアピールしているのかもしれない。「怒る」という態度は、真実を探ることを放棄した態度ですらあることに気付き、ショックでした。

一人で映画を見たのは、数年?10年近くぶりでした。
素晴らしい、完成度の高い作品、創作物だと思いました。
脚本賞ということで、シナリオが素晴らしいのはもちろんのこと、どういう映像にするのかという点でやっぱり監督の力が大きいと思うし、役者も素晴らしかった。
坂本龍一の、クライマックスシーンで流れるAquaが耳に残って離れません。
すべてが、メッセージを伝える一点に向かって統合されていたと思いました。

また見たい、かな。
自分への戒めとして、怪物の恐ろしさを忘れたころにまた見たいかもしれない。


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