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自己責任のしあわせ

心身を壊して休職している。会社のパソコンをクローズして、10日になる。休職したての頃に書いた記事の下書きを読み返すと、赤裸々すぎてアップできないので、今ここに書き直している。

会社にとって私はただの駒だった。今回のことでそれが良くわかった。それは結局、自ら喜んで奴隷になってしまったからだった。恐怖を原動力に極限まで頑張ってしまった。こうなってしまったのも日本の恐るべき、人権無視の派遣法のせいでもあるが、それを今言っても仕方がない。この話題はまた別の機会に取っておくとして、とにかく、私は恐れを原動力に自ら奴隷労働をしてしまったのだ。奴隷のように扱ってくる会社の態度を許容してしまったのだ。

奴隷がいないと職場が回らないと、休職中の私に電話があって、来週仕事について聞く時間をくれとのことだった。電話が鳴るたびに蕁麻疹が痒くなった。私の人権はどこまで無視されるのだろうか。

大事なポジションを任されたばかりのタイミングで職場を離れてしまって、チームに多大な迷惑をかけているのは事実だが、職務放棄してしまっているその罪悪感は心身の回復とともに薄れてきた。一方で、自分の働き方、助けてくれもしない会社に身をささげるような奴隷のような働き方をして身体を壊してしまった、自分自身に対する罪悪感が出てきた。自分を虐めていたのは自分自身だったかもしれない、などと。

自分を守ってやれるのは自分だけなのに、自分を守っているつもりで自分を壊していた。頑張れば評価される、評価して欲しいみたいな奴隷根性が私の中にある限り、この資本主義のピラミッドで最下位の場所にいる私がどんなに会社に努力を捧げても、搾取され捨てられるだけだ。私は何を勘違いしていたのだろう。

この休みの間に、自分の幸せをもう一度考え直しなさい、と言われているようだが、なにも思い浮かばない。ただ、仕事が楽しかったのは事実だ。やりがいもあった。仕事に手ごたえがあることが面白かった。私は本来仕事がとても好きな人間なのだと思い出させてくれた職場でもあった。自分の頑張りが形になると嬉しかった。

ただ、中毒のように仕事にのめりこんだのは異常でもあった。仕事を奪われると、私には何も残らない。何が自分の幸せなのかも、もう思い出せない。それは自分の中から滲み出てくるような幸福ではなく、「評価される」ことで満足感を得るという、他人ありきの幸福の追求に慣れ切ってしまったからだ。他人は関係なく、自分の中から湧いてくる幸せのようなものはどんなものだったか、もう忘れてしまった。思い出すのにはもう少し時間がいるかもしれない。死ぬ前に思い出せないと、死に際に私はこの人生を無駄にしたと思うだろう。それを思い出すことを怠けてしまったら、誰かに使い捨てられて人生を終わることになるだろう。見返りを期待して生きるなと入れ墨でもしておこうか。人生を他人に預けた自分が悪い。

余談だが、自分の幸せがなんだったかを思い出すなどということはなんと特権階級的な考え方だろう、と一方で思う。冷たい土の上で爆撃に怯える人々から恐怖の日々が消え去りますように。こんなことを、温かいヒーターの効いた部屋でしたためている自分に心底憎しみを覚える。これもまた論点のずれたことなのかもしれないが、寒さから逃れられる温かい部屋があること、三食の食事に事欠かないこと、安全な場所で好きな文章を書けること。私はすでにかなり幸福度の高いところにすでにいることを忘れてはならないと思う。

イライラが止まらない。自分に対して憎しみが止まらない。

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