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久々のストーム

酷い鬱が長引いていて、辛い。

いくら在宅勤務だからといって寝巻きみたいな身なりで仕事はあかんと思い、今日はセーターに着替えることができた。

そしてB’zのRUNをYouTubeで流しながら、昨日よりは気分良く仕事ができている。今日はだいぶ楽だ。B’zのRUNは昔から、頑張れと言ってくれているような曲。

寝込むくらいの酷い鬱は久しぶりで、先週は辛すぎて寝しなにセルトラリン25mgを飲んだが、頓服はだめだと思って心療内科に予約を入れたら土曜日は3週間先まで予約が埋まっていた。薬は正しく飲まないとかえって症状が悪化する。今回は思いつきで飲んだせいか、全く効かなかった。

鬱のきっかけはわかっていて、いまだに関係に蹴りのつかない(!)ダニーロとの電話での最悪な会話と、会社の揉め事が見事に重なってしまったのだった。私はがっくりきてしまって、思わず子育てで忙しい親友を捕まえて、深夜の電話越しに号泣していた。

でも号泣できたのは良かった。たまたま手元にタオルがあって、私は顔にタオルを押し当てて子供のように泣いていた。鬱の正体を見た気がした。このドロドロした感情が涙と嗚咽となって流れ出たのだと思った。こうやって体の外に出さなければジワジワと静かに心を蝕んでもっと辛かっただろう。本当に親友には感謝しかない。他人にあんな号泣を聞かせてしまったのははじめてだ。そもそも私はどんなに辛くても涙が一滴も出ないので、これはとても珍しいことだ。

袋小路に迷い込んだように追い詰められたらもうだめだ。選択肢が極端に狭まって、後戻りも先に進むこともできなくなってしまう。鬱だからそんな思考回路になるのか、そんな思考回路になってしまって鬱に陥るのか、よくわからない。その両方かもしれない。

悪いことに仕事もぱたっと暇になってしまって、気をそらすこともできない。かといって、寝込みたいくらいにしんどくても業務時間にベッドに逃げ込むこともできない。一度枕に頭を付けてしまったら何時間も帰ってこられないぐらいに心がボロボロだし、いつ突然仕事の電話が鳴るかもわからない。暇ではあるけれど、起きていなければならない。なのに何もする気が起きない。拷問だった。

本を読んでものろのろと進まない。どんな音楽が私の気持ちを癒すのかがわからない…というか聴きたい音楽がわからなくなってしまう。元気な時はあれもこれも次々に聴きたくなるのに。ダブルベース(コントラバスのこと)が妙に心を落ち着けるのでYouTubeでロン・カーターをひたすら流していたのだが、気づくとどんどん沈んできた。鬱の時は手の施しようがない。こんな時は寝るしかないのに、仕事中はそれもできない。

ところでタイトルをストーム、嵐としたが、これは私の精神状態を的確には表していないかもしれない。私は自分を「動」の人間だと思っていて、激しく動いていると調子がいい。豪雨が降ったり強風に髪を振り乱したり、それでも傘をおちょこにしながらでも前に進んでいる方がよほど楽しい。私にとっての鬱のときを例えるならば、誰もやってこない曇天の暗い村にただ一人取り残されてしまったような感じかもしれない。何も動かない、風も吹かない、どちらに動いていいかもわからない、引き返すことも前に進むこともできない、助けも来ない、独りぼっちでただ一人じっとしているしかない。

今日になって仕事が少し動き出して、それに対応しているうちにまた少しずつ血がめぐりはじめた。

ちょっと元気になって来て思うけど、こういう音楽聴いて気分上げればよかったんだとか、一日一回は外に出てアイスクリーム買いに行ったりすればよかったんだとか、外に出なくてもちゃんとした服に着替えて化粧もすればいいのだとか、いろいろ思うけれどドン底の時って心も身体も沈み切って動かないのよね。もう何もできなくなるの。絶望の底にいるので、前向きになるための行動が何一つできなくなる。これは悪循環なんだよね。鬱の人に散歩すればいいよとか、どんなにしんどくても風呂は入ったほうがいいとか、色々アドバイスはあるんだけど、それってそのパワーがある人がもっと元気になるためのTipsであって、鬱の底辺にいる人って歯を磨きに行くこと、物をしまうこと、そのすべての行動のハードルがとても高くなってしまうのよね。とてもしんどい時は1mmたりとも動けなくなってしまう。

ところで鬱ゾーンに入る少し前に図書館で本をいくつか借りていたので、気晴らしに(は全くならなかったが)読んでいたのが、やはり鬱関連の本だった。鬱状態という、骨折や転んだ怪我のように目に見えない状態の、他人の体験談が知りたくて、図書館に行くとどうしても鬱関連の本に手が伸びる。ちなみにこれは5年以上前の読書感想文。

今回図書館で借りて読んでたのがこれ、谷沢栄一という国文学者の鬱体験。直球の感想を書いてしまうと、14歳ですでに鬱を発症していたという体験は興味深くはあったが、内容としてはおもしろくなかった。自身の体験を常に客観視しているので(国文学者という職業柄か)生々しさに欠けており、また鬱への教訓も「鬱には良好な夫婦関係が大事だ」とか「チャランポランであることも時には必要」などこれといって特筆すべきことはなかった。開高健の親友ということで、親友の目から見た鬱に苦しむ開高氏の姿を、彼にしか書けない視点で書き深めて欲しかったところだった(本著は谷沢氏自身の鬱に関する自伝なので仕方がないか)。

ところで鬱ゾーンにハマってしまった時、私は周囲にどうして欲しいかというと、とにかくほっといて欲しい。腫れ物に触らぬようにという言葉があるが、まさに腫れ物状態なので触らないでおいて欲しい。私も憂鬱な時は極力人との接触を減らして、そうできるときはただただベッドに沈み込んでいる。というかエネルギーが枯渇してしまっているので、そうするしかないと言ったほうが正しい。

どう隠しても鬱なのはバレバレだし、私も母と妹には今鬱が酷いと打ち明ける。

本当に参ってしまうのが、母は母なので娘の異変を一番に察知するし心配するし、気遣ってくれるし、そんな状態になってしまっている私を憐れんでくれているのが手に取るようにわかる。世話焼きで優しくて共感タイプの人で、自分のことよりも家族のために生きてきたような母だ。でも突然に部屋に入って来ては「暖房つけてるの?」とか、顔をのぞきこんで「気分はどう?」とか聞かれたりするのは、本当に苦痛だ。心配かけてる私が悪いのだが、本当にただただ、ほったらかしておいてもらいたい。鬱が酷い時は母の優しい言葉にも笑顔で返せない、ただただ辛くて「悪いけど今はほっといて」の感情が前面に出てしまう。優しい言葉をかけてもらっても、恨めしそうにジロッと一瞥するので精いっぱいだ。思いっきり感じ悪くなってしまう。だからただ、ほっといて欲しい。

年を重ねてとくに母は、目についたこと、思ったことを直に口に出してしまうようになったので、普段は気にならないが鬱状態の時に一緒にいるとうるさく、うっとおしく感じてしまうことがある。

鬱の時の私の「そっとしておいて」に裏はなく、とにかく構って欲しくないのだ。母には本当に申し訳なく思う。鬱が引いてきて、元気になったら自分でも自分に笑顔が戻ってくるのがわかる。母にはゴメンねの気持ちをこめて、たくさん会話をするようにしている。

鬱はいつも、ふとしたきっかけで訪れて、しばらく居座る。今回はヘビーで長かった。やっと鬱明けしたかな?でもまだ安心はできない。今回の鬱中に昔の職場の同僚と集まって食事をしたし、ダンス教室の発表会もこなしたのだが、集合写真に写る自分はいたって元気そうだ。なんなら誰よりも楽しそうに写っている。鬱の怖いところはこんなところだ。血が流れるわけでもないし、包帯を巻くわけでもない、でも心がずっと泣き叫んでいるのだ。


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