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無実の初恋 2

J.GARDEN56にて発行の新刊「無実の初恋 眼鏡職人アンリ、魔術を知る」の本文です。

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J.GARDEN56
開催日:2024年9月23日
会場:東京ビッグサイト
スペース【う10a:活字エンドルフィン】

新刊「無実の初恋 眼鏡職人アンリ、魔術を知る」
サイズ:A5二段組/88P/約55000字
表紙イラスト:時任遊也様
価格:800円

気軽に遊びに来てくださいね!

削り過ぎてはいけない

  十二年と少し経っても、ルテティアの街はあまり変わっていない。
 冬は慈悲がないほど寒いが、工房の中には炉があるのでいつでもあたたかい。初めてここに引き取られてきた時、あたたかい部屋で仕事できることに感動したものだ。

 ラコルデール眼鏡工房も変わらないように見えるが、中の人は少し変わった。アンリより若い職人が増えたのだ。

「アンリさん! レンズ三組目、完成しました〜」

 最年少の職人見習い・ミレーヌがウキウキと硝子レンズを運んできた。彼女はレンズ研磨の練習中で、先日ついに一人でレンズを完成させたばかりだ。

「パトリックはなんて?」
「及第点、だそうです」

 工房の奥からパトリックが――こちらは最年長職人だ――こちらを見ていた。とりあえずよし、というところか。

「次の行商に持って行ってやるよ。売れるといいな」
「どんな人が買ったか教えてくださいね!」

 ミレーヌはいつも元気でおしゃべりで、うるさいと思うこともあるが、工房の雰囲気を明るくしてくれる存在だ。
 ラコルデール眼鏡工房は今日も大忙し。

「パトリック、こっちも検品頼む。ゲクラン夫人は今日の午後、ルジャルドン氏のとこは明日納品に行くから」
「眼鏡屋に卸す二十本も明日ですかい?」
「そう。それはフレッドに見させるから」

 工房の中央の台でフレーム組み立てをしている男を振り返る。

「フレッド、検品、今日中な!」
「はい~」

 フレデリク、通称フレッドは顔を上げないまま気の抜けた返事をした。これで十分元気な方だ。彼には組み立てと仕上げの担当を頼んでいて、最近はパトリックと一緒に検品も任せている。
 他に伝達事項がないことを確認して、荷物を掴んで立ち上がる。思ったより時間がかかっていた。約束の時間ギリギリになりそうだ。

「あ、そっか。アンリさん今日はコンスタンティン様のところでしたっけ」

 ジャン・コンスタンティンはラコルデール眼鏡工房の上得意客だ。若干二十四歳にして学者としての評価と、ブルジョワ放蕩息子としての浮名との両冠を手にしている。
 彼は無類の眼鏡愛好家で、アンリはこの半年ほど密な付き合いを続けていた。

「だから新しいベシュト下ろしたんですね」
「なっ、はぁ? ちげーよ、偶然だ」

 ミレーヌがコロコロと笑うのを前髪を叩いてやめさせる。

「別にこれ新品でもねーし。義父さんの古いので、まだ綺麗なのがあったから」
「え、新品じゃないんですか?」

 途端にミレーヌはつまらなさそうに視線を逸らした。

「なあんだ。ケチなアンリさんがわざわざ新しい服を買っちゃうくらい、コンスタンティン様に本気なのかと思ったのに」

 どういう意味だ、ケチとか、本気とか。言い返したいことはあるが口を噤む。
 分かっていてアンリをからかっているのか、思いつきで適当なことを言っただけなのか、ミレーヌの様子からは分かりかねた。余計なことを口にすると墓穴を掘りそうだ。

「こら、若に絡んでないで仕事しろい」

 パトリックがミレーヌの首根っこを掴んでくれた。アンリは今度こそ工房のドアを開ける。

「じゃあ行ってくる。昼過ぎには帰るから」
「お気をつけて」
「いってらっしゃーい」

 駆け足で通りに飛び出したが、人が多過ぎてなかなか前に進めない。そのおかげで寒風を浴びずに済むのだけど。
 まだ冬。しかし、もう間もなく春だ。

 


 実験室には初めて見る器具がたくさんあった。
 古そうな素焼きの壺や皿、どうやって作ったのかその工程に興味をそそられる複雑な構造の硝子の管、わずかに形の違う金属のピンセットや陶製の棒が何十本も並んでいる。
 未知の器具たちも気になるが、アンリはついつい隣の人物を見上げてしまう。

「みんな集まったね。では早速、多焦点レンズ接合実験をはじめよう」

 ジャンは学生たちに呼びかけてから、アンリに視線を合わせた。一見冷たそうに感じる灰青色の瞳が細められる。
 豊かなブルネットが今日は後頭部でピシリと結ばれていて、普段と違う装いにアンリの胸は高鳴った。洒落たガウンでもコートでもなく、質素なシャツとベシュト姿なのも新鮮だ。

 アンリはジャンに憧れていた。恋心も自覚していた。
 しかしなにぶん遅い初恋で、これからどうしていいか全く分からない。見惚れてしまって、それに気付いて、見つめるのをやめる以外に何もできないでいた。

「レンズのカットと接合の手本を見せてくれるのは、ラコルデール眼鏡工房のアンリだ」
「あ、よろしくお願いします!」

 ジャンの紹介を受けて、慌てて学生たちに頭を下げる。
 今日は実験の手伝いを頼まれたのだ。ジャンが考案した特殊なレンズのために、本職であるアンリの力を借りたいと言われ、二つ返事で了承した。

「カットと接合ですよね。器具は」
「言われたものを用意したけど、これで足りるかな?」

 アンリは鼻から下をマスクで覆い、両手に分厚い革手袋をはめる。
 レンズのカットには足踏み式の糸鋸盤を使う。硝子の破片が飛んで顔に当たるし、うっかり鉄線に触ると指が切れるので装備は欠かせない。学生たちも心得ているようで同じようにマスクを装着した。
 アンリは眼鏡もかけた。遠目は効くが、手元の細かい作業には眼鏡が欠かせないのだ。

「それ、頑丈そうだね。手元用? 工房ではいつも使ってるの?」

 ジャンがアンリの顔を覗き込んだ。彼の愛用する淡い薔薇の香水が、マスク越しにもほんのりと香る。
 急に顔が近づいてドギマギしたが、ジャンの興味は当然のように眼鏡に注がれていた。つるの先が四本になっているのが珍しいようだ。

「すごく安定しそうだね。似たようなのを見たことがあるけど、もっとしっかりしてる」
「作業中に眼鏡が落ちたら危ないですから」

 今回ジャンが考えたレンズは、上半分が遠くを見るため、下半分が近くを見るため、二つの焦点レンズをくっつけて一枚にするというものだった。
 ジャンが欲しがるもの。思いついたものをアンリが作り、それがそのままラコルデールの商品となっている。
 そんな風に二人は一緒に眼鏡を作っていた。

「じゃあまずは、それぞれのレンズをカットしていきます」

 学生たちが真剣な表情でアンリの手元を見つめる。

「しっかりペダルを踏んで刃を回転させて、速度を落とさずに一気にカットします。途中で止まると断面が歪むので」

 刃が硝子に食い込む、引っかかる感覚がレンズを持つ手に伝わってくる。この引っかかる感じが一定であればスムーズにカットできる。足踏みの速度と、レンズを刃に押し付ける力加減を一定に保つには訓練が必要だ。
 アンリは二枚のレンズをそれぞれ真っ二つに切断した。

「やっぱり本職は違うね。ボクが自分で試した時は、なんだかぐちゃぐちゃになって、焦点を測るどころじゃなくなってしまってね」
「いえ、そんな、俺なんか。ベテランの職人ならもっと綺麗でもっと早いですよ」

 本心だった。アンリは最近営業回りが多く、なかなか工房の作業に携われないことが多い。
 しかし褒められれば気分は良くなる。それが憧れの人からの賛辞であれば、なお。今日からもう少し製作の時間を増やそうと心に決める。
 続いて、焦点の違うレンズをくっつける作業だ。

「とりあえず鉄の棒でやってみます。一番簡単なので」

 炉で赤くなるまで熱した鉄の棒に、硝子レンズの切断面を押し当てて表面を溶かす。それを素早く圧着すれば、半分のレンズが丸い一枚の眼鏡レンズの形になる。手順は極めて簡単だ。

「すごい。ちゃんと一枚のレンズになってますね」
「多焦点レンズ、すぐ完成しそうじゃないですか!」

 硝子レンズをくっつけただけで大絶賛の嵐だ。
 彼ら実験学者や科学者は、特殊な工具を用いて様々な作業を高度にこなすと聞いているが、レンズの扱いという一点のみで見ればさすがにアンリの方が長けているようだ。

「うーん、でも、これじゃ視野はほぼないですね」

 アンリもレンズを観察してみるが、これじゃあ眼鏡には使えない。
 カットした面に火を入れたので、その部分に歪みが生じてしまうのだ。横から見ると圧着部が外側に流れ出ている。出っ張りは研磨すればいいが、レンズ本体の歪みはもう修正不可能だ。

「やっぱりカット面を直接炙るんじゃなくて、珪砂材か何かを先に薄く作っておいて、そっちを熱して接着剤にできないかな」

 アンリは脳内で試作を始めた。
 接着剤は微量でいいはずだ。問題はそんな少ない珪砂を熱して、薄いレンズの断面にほどよくまぶして、冷めないうちに圧着までできるかどうか。

「それにレンズの外枠がガタガタ……これじゃフレーム作れないや。カット前の形からちゃんと合わせないと」

 遠くを見るための凹レンズと、近くを見るための凹レンズ。この二つの大きさと外円を最初から合わせておかないと歪になる。例え大きさを合わせても、カットする位置が狂えば同じこと。
 緻密な計算と、それを実現する技術が必要だ。

「ふふふ、そうだよね。実験を繰り返してもっと精度を上げないと」

 ジャンは満足げに微笑んだ。マスクで口元が見えないが、細められた目と声に感情が滲む。彼は楽しい時、その気持ちを隠さない。

「そのために今日はアンリから基本的なカット技術を習おう。さあ、順番にやってみて」

 やってみて、と学生たちに声をかけたジャンが一番に糸鋸盤の前に座った。
 それにアンリが思わず噴き出し、つられて学生もみな声を上げて笑ってしまった。



 ジャンの書斎へ案内され、いつもの窓際の椅子に腰掛ける。
 今日はあたたかいカフェオレだ。
 真冬の間はチョコレートが多かったが、コーヒーが出てきたことに春の近づきを思い出す。

「今日はありがとう。おかげで研究が一歩前へ進みそうだよ」

 ジャンが優雅にカップを持ち上げる。
 マスクを外して、彼の顔を覆うものは何もない。書斎ではよく読書用の眼鏡をかけているので、柔和と怜悧の同居する美しい顔を直接見られるのは貴重だ。
 アンリはじっ見つめてしまいそうになるのを堪えてカップに目を落とす。

「レンズを半分ずつくっつけるなんて、考えつくジャン様がすごいですよ」

 この発明のきっかけは、アンリの何気ない一言だった。

『一本で済めば売りやすいのに』

 近眼の人が老眼になると、遠くを見るための眼鏡と、手元を見るための眼鏡を使い分けなくてはならない。
 眼鏡屋としては一人の人間に二本目を売りつける好機なのだが、買う側は眼鏡がたくさん欲しいとは限らない。二本目は値切られやすいし、単純にかけたり外したりは面倒なものだ。

「でも、もし本当に近眼用と老眼用が一本で済むようになったら、売れる本数が減るんじゃないかい?」
「全然問題ないです」

 アンリは自信満々に答えた。

「よその二本分が、うちの一本になるだけなんで」

 ギルドのじいさんたちにはこういう視点がないのだ。
 いいものをコツコツ作っていれば認められるとか、奇をてらった物はすぐに飽きられるとか、伝統と秩序を乱すなとか、眠たい話ばかりしている。それじゃあ、いつか商売敵に出し抜かれて苦しい思いをするに決まっているのに。
 ジャンはくつくつと笑いを噛み殺した。

「君のそういうところ、好きだな」

 カップ越しに目が合ってドキリとする。アンリは動揺を誤魔化そうとして、慌ててカフェオレを飲んだ。

「失礼致します」

 ノックの後に若い男性使用人が入ってきた。
 コンスタンティン邸の使用人は多いが、中でも彼は馴染み深い人物だ。よくジャンの近くにおり、ラコルデール眼鏡工房を訪れた際も付き添っていたので、お付きであり護衛でもあるのだろう。

「当主様がお帰りで、ジャン様にすぐに来るようにとおっしゃっていますが」
「悪いけど今は行けないよ。大事なお客様がいらしてると言っておいて」
「承知しました」

 使用人はあっさり下がってしまった。
 当主様とは、コンスタンティン家の主人だ。ジャンの祖父で、もちろん学者で、一門がルテティアで名を上げたのは彼の手腕だと聞いている。

「俺なら大丈夫ですよ」
「気にしないで。最近じい様が本当に勝手でね」

 ジャンが珍しく気だるげなため息を吐く。

「大学の講義を手伝えって言われたけど、実験の方が先に決まっていたから断ったんだ。断ったのに、じい様の中では断ったことがなかったことになってるんだよ。それで行かないとすっごく怒る。こんなのが多くて参るよ」
「大学の講義ですか。学者さんって、結構お忙しいんですね」
「忙しないばかりで退屈だよ。せっかく研究するのに好きなことができないなんて」

 コンスタンティン家は代々学者の家系だ。ジャンも博識で、すでに五国を渡り、各地の大学や教会で高位者の評判を獲得している。しかしその自由気ままな気質は、権威ある年配の学者たちとは反りが合わないだろう。

「あの、御当主様も、例の魔術とか……そういう研究もされてるんですか?」
「大得意だよ。じい様は神学の専門家だからね。世界中の神秘主義とか、密議とかを研究して、聖書解釈と術の関連性の論文を何本も書いてるんだ」

 魔術――強烈な単語だ。
 アンリは目に見えない不思議な力とか、神秘とか、おまじないとか、運命の相手とか、そういう話が大の苦手だった。
 今でも嫌いだ。正直、そういうものを妄信している人間は馬鹿だと思っている。

 しかし、ほんの三か月ほど前、アンリは実際に体験したのだ。当時噂されていた、黒魔術で異界に攫われるという現象を。
 そしてジャンに助けられた。

 曰はく、アンリは気の歪みを通って「向こう側」へ迷い込んでしまった。曰はく、気の歪みとは時折生じるものだが、アンリの体調不良、季節、時刻、場所の条件が偶然揃ってしまった。そして身に着けていた鏡に「術」が施されており「向こう側」へ入ってしまったのだという。
 コンスタンティン家はこの謎多き「術」についても代々研究している。故に一部では、魔術師の家系とも呼ばれている。

「じい様は魔術の研究が大好きなんだよ。それでボクが小さい頃は、天文をやれ、天文をやれ、って強要されてさ」
「天文学と、その魔術的な研究って関連があるんですか?」
「占星術予言を研究させたかったみたい。天文学は一生かけて体得するような膨大な学問だからね。じい様自身が天文までは手が回らなくて、その分は孫にやらせようって」

 当主の魔術研究に対する情熱がよく分かった。
 なるほど、血筋だ。

「でも、今のジャン様は眼鏡ばっかりですよね」
「興味がない研究なんて続かないからね。ボクが知りたいのは、眼鏡という素晴らしい器具の系譜と、これから生み出される新しい眼鏡たち」

 ジャンはカップを置いて、足を組み替え、テーブルの上で両手を重ねる。少し前のめりになって、灰青色の瞳がアンリに近づいた。

「ルテティアに呼び戻された時は、仕事ばかりで退屈するかと思っていたけど、君のおかげで毎日が楽しいんだ。大好きな眼鏡の研究にこんなに打ち込めるのは、素晴らしい工房に出会えたおかげだもの。帰ってきて良かったって、今はそう思っているよ」

 アンリは背筋の下の方、腰のあたりが震えるのを感じた。歓喜だ。恍惚であった。

「俺も、ジャン様に会えて、本当によかったです」

 顔を見ていられなくて俯いてしまう。心臓の横がきゅうきゅうと苦しくて、なぜだか泣きそうな気持になる。

「初めてだったんです、こんな風に、一緒に仕事を楽しんでくれる人」
「自分の眼鏡を作ってる時も、ジャン様の眼鏡を作ってる時も、いつも楽しくて」
「俺、ずっとこうやって、毎日ジャン様に会いたい」

 自分の目がとろりと潤んだのが分かった。胸は閉めつけられているけど、不思議と気持ちが凪いでいる。ゆったりとした多幸感に満たされていた。
 その気持ちのまま目線を上げると、ジャンの見開かれた瞳とぶつかって――アンリの気持ちは一気に床まで落っこちた。

「あ、す、すみません……」

 弁えていなかった、と思った。あくまで自分は眼鏡工房の親方代理、ただの職人。対してジャン・コンスタンティンは贔屓にしてくれる大得意様。

「その、違くて……」

 何が違う。
 言ってはならなかった、言うつもりもなかった。どうして口を滑らせたのか。
 真っ青になって後悔するが、アンリの気持ちは溢れて外に出てしまった。零したミルクはもうカップに戻らない。

「ああ、ごめんよ。突然だったから驚いて」
「……すみません」
「謝らないで。君がそんなにボクを慕ってくれてたなんて」

 ジャンは微笑みを取り戻して組んでいた足を解いた。カップを持ち直して、カフェオレを覗き込む。

「君のことは、弟みたいに思っていたから」

 アンリの口からはホッと溜息が漏れた。
 それはきっと、安堵だったような気がする。そうでなくてはならない。



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