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性格の合わない学校も、意外と悪くない。

母に言わせるとお嬢様校というのは
2種類あるらしい。


1つは、先祖代々裕福な家の
言わば公家のような方々の
ご子女が通う学校で、

もう1つは、有力な商人の
お嬢様の多い学校。


どちらが良い、とか
どちらがより裕福、という
区別は無いのだけれど


通う生徒の性質が
はっきり分かれてくるらしい。


つまり、
前者は
おっとりと優雅なお嬢様が多く
後者は
勝ち気で活発な方が目立つ。


私の長姉は前者の学校に
6年間通った後、
超お嬢様大学で
4年間過ごしました。


大学には
皇族の御息女が
纏うようなスーツで
行っていました。


デニムで学校に行くものなら
白い目で見られたらしいです。



彼女は一度たりとも
還俗することはなく(?)
そちらの世界の会社に就職して
そちらの世界の方と結婚し、
そちらの世界で優雅に
生活しています。


私は大学時代から
デニム愛用者。


「みーちゃん(私)は本当に
 いろんな世界を知ってるね!」

と、いうのが
長姉の口癖。


私の庶民ぶりに
空いた口が塞がらないのでしょう😆


話を戻します。


かたや
次姉と私は
後者のタイプの中高一貫校を
卒業しました。



高校時代から
片耳にピアスを5つ、
茶髪のソバージュ、
学校帰りに
ジュリアナ東京で
ジュリ扇を持って
お立ち台で踊り狂っていた
(ちなみに全部校則違反です)

頭のおかしな割に
6年間終始成績学年トップで
オール5を保ち続けた、

先生に注意されたら
怒鳴り返す
気の強い姉には
この学校は
ぴったりと合っていました。


だけどここは
本当に私向きではなくて
辛かった記憶があります。


私は2つ、
女子校を受けて
ここより少し学力の劣る
つまり「滑り止め校」にも
合格しました。


母は、性格的に
滑り止め校の方が
おっとりしていて
貴女に合っているから
そっちに行け、と言ったんです。


だけど私は
小学生の頃すでに高かった
プライドや見栄から
「学力の高い」
次姉と同じ学校を選びました。


全ては自己責任です。


入学すると
中学1年生から
無視、いじめごっこがあり
いじめ番長のお嬢様に
逆らう子は皆
いじめと無視の対象になりました。


私はいじめられ中の子と
気にせず仲良くしていたら

次の標的になりました。


頭の良い子は
廊下に貼ってある成績表の
名前をぐちゃぐちゃに消され、
それから写真の顔を
滅多刺しにされました。


おっとりさんの学校にも
いじめなんて何処にでも
あるのでしょうが、
とにかくやり方が派手でした。


「キモい」と分類した子を
前にひっぱり出して
無理やり尻文字を書かせたり


「キモい」と分類したグループを
触って来る罰ゲームが存在し
大仰に気持ち悪がったり
する子が存在しました。


小学生時代は
積極的だった私は
だから6年間、
息をひそめて生きてきた。

あ、でも高校では
音楽部長だったから
そうでもないのかな😅






15年ぶりの再会。


アメリカ帰りの真希ちゃん(仮名)は
私の中学、高校時代の
同級生で

私のイギリス在住時代にちょうど
ロンドンにチェロ留学をしていた
親友でした。


高校生の頃は共に
音楽選択だったので
卒業演奏会には
彼女のチェロの伴奏を頼まれ
ピアノで共演しました。


運動神経も良く
性格の明るいお嬢様で
人気もあった真希ちゃん。


中学時代に中二病も拗らせ
陰鬱だった私は
どうして仲良くしてくれるのか
分かりませんでした。


いつまでも理由が
分からないまま
高校生になっても慕ってくれて
卒業旅行も一緒に行きました。



イギリス在住時代には
ケントンにある
彼女のステイ先を訪ね、


私の結婚式時には
日本にいたので
出席してくれました。



2番目の男の子が産まれた時は
里帰り中の
彼女の生家に呼んでくれて
その大きな豪邸にある
グランドピアノの
スタインウェイを
弾いてくれ、と頼まれ


逃げました😆



音楽と常に一緒にいた人。



私が断念した
音大の道を進み
音楽留学を果たし
チェロの先生になった人。


BGMは、ヨーヨー・マ。

15年ぶり、
変わらないな。


真希ちゃんは
ハンググライダーもやるような
スポーツ好きの人だから
服装も私とは
違うのですが、


服や持ち物の、素材が、
私と似てる。


今は都外の
インターナショナルスクールに
息子さん2人を通わせているために
遠くに住んでいる彼女、


「久しぶりの都会だから
 ごめんね、ここ寄っていい?」と

言ったところが
美術館と技術館。



私と似てる。


感性が似ている人って
大人になってからは
なかなか出会えない。


今は2人の男の子のお母さんだから
共通項が多く、
15年ぶりでも
話すことが溢れかえって
時間が足りませんでした。


大好きなキルフェボンで
お茶してきました。





嫌だな、と思っていた
中高でも
楽しいことも
たくさんあった。


「みおいちちゃん、
  お琴の演奏のときに
  あの子と一緒に弾いたでしょ?

 あの後私が
 チェロを弾いたんだよ。」


そうだった、
そんなこともあった。


そうだ、
私の拙いバイオリンとも
合わせてくれたね。


あの黄色い本を
休み時間に開いて
楽典は一緒に
勉強したんだったね。


不思議だね、
タイムスリップしたみたい。


辛いと思いつつ通っていたけど
素敵な出逢いもあった。


楽しいことも
いっぱいあった。


同じような感性を
先生方や学校組織、
親たち大人に
育んでもらった。


私が未熟だっただけで
もっともっと感謝するべきところは
たくさんあった。


夏にあの子も誘って
もう一度会おうね、って
約束しました。


ねぇ、真希ちゃん。

貴女もあの学校には
強い子が多くて
いじめも多くて
本当に嫌だった、なんて言っていた。


私は
真希ちゃんはいつだって
笑っていたから
楽しそうだったから
びっくりしたんだけど、


性格が合わない学校も
意外と良いのかもしれないね。

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