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【企画参加】今、世界が暗く見えてしんどい方へ。こんな手もありますよ。

私は24歳になるまで
母に褒められた記憶は
ありません。

いいえ。

「優しいね」と言われたことは
何度か覚えています。

母の頭に電気のガラスの傘が
落ちて割れ、
流血事件になったのに
家族が誰も病院同行を
しなかったから、
私が小学生の身で
同行したとき。

母は身体が弱く
よく寝込んでいましたが、
誰も様子を見に行かなかったから
いつだって私が
お茶や果物を持っていったとき。

誕生日に必ず
プレゼントをあげたとき。




私は三姉妹の末っ子で、
祖父母と同居でした。


母と祖母は大変に仲が悪く、
母は胃潰瘍で吐血したり
手首の動脈が内側から
ストレスで急に切れて
あわや死にそう
になったり
していました。


私より6歳上の長姉は
母が祖母にいじめられる現場を
見て育ったようで、
祖母に家の中で会っても
あいさつなどすることなく、
恐ろしい顔で睨みつけていました。

次姉は中間子の
空気を読む性格のためか、
天然か、
母とも祖母とも仲良く
していましたが、
どちらかというと
母側についていました。


嫁姑問題って、
どちらが悪いって訳じゃなくて
泥沼
なんですよね。
即、二人を引き離すべき
なんですよね、本当は。

私が幼稚園に上がってすぐ
母は働き始めました。
それで私は日中はいつも
祖母と過ごしていました。

私にとって
いつも一緒にいて
遊んでくれる大人は、
何でも教えてくれる大人は、
祖母でした。


母は私がお婆ちゃん子だったのが
気に入らず、
私に祖母の悪口を
随分と言いました。

どんな風にいじめられたか。
どんな風に生活費を
渡さなかったか。

でも、子どもだった私には
分からなかったのです。

母をいじめた酷い人は祖母だ。
だから祖母と遊ぶのはやめよう。

こんな風に思考が
回らなかったのです。
だって私の近くにいつも
母はいなかったもの。
いつも遊んでくれたのは
祖母だったもの。

さて。
ここで親をやっている皆さんに
質問です。


あなたは母です。
夫は社長ですが、
儲けたお金を
賭け麻雀にいつも
使ってしまいます。



家のお金は
姑が管理していて
生活費を全然
渡してくれません。


だからあなたは
働かなければなりません。
あなたは大変に裕福な
お手伝いさんが何人もいる家で
育ったので、
働くのは大変です。

姑には酷く
いじめられます。


子どもは女の子が3人。


上2人は快活で
思ったことをズバッと言う
気の強く明るい子です。


最後の子は病弱で小さく
夜中によく喘息の咳をして
眠いのに起こされます。


この子は叱っても泣かないし、
文句も言わないし、
外に行ってあなたの悪口も
言いません。
大人しくて、暗いです。

あなたは毎日イライラしています。
家には大嫌いで胃に穴があくほどの
姑がいます。
仕事ではセクハラ親父がいます。

どうでしょう。

ストレスの捌け口として
暗くて弱い末っ子に
当たってしまいませんか?




私は成績も運動神経も
あまり良くなかったので、
よく母に叱られました。

喘息の咳が夜中に出ると
「うるさい!静かにしろ!!
 みんなの迷惑だ!」と
酷く怒鳴られました。

小学生の時
家族旅行に行きました。

母は次姉と
写真を撮りたがりました。

「さち、さち、可愛いね。
 一緒に撮ろう」

「お母さん、私も一緒に撮る」

「うるさい、みおいち!このブス!
 あなたとは撮りたくないのよ‼︎

「みおいち、お父さんと
 一緒に撮ろう」

私には優しいけれど
自分の嫁姑戦争の仲介は
してくれない父が、
母は嫌いでした。

父はよく私の肩を持つので
母はそれが気に入らないようでした。


中学の修学旅行では
写真を見た母が言いました。

「まあ(長姉)やさちのお友達は
 みんな可愛いのに
みおいちの友達はブスばっかり‼︎


私はそれから
友だちの話を母に
することはなくなりました。
紹介するなんて
もってのほかです。

成績が良くなくて怒られるのは
まだ良かったです。
問題は次姉と同じ程度のレベルまで
成績が良かった時に
更に酷く叱られる
ことです。

小学生の頃
珠算検定1級をとりました。
そのそろばん塾では
始まって以来の快挙で、
先生方は大変に喜んで
たくさん景品を下さいました。

私は「まずいな」と思いました。
次姉は3級か2級で
そろばん塾をやめていたのです。


これは絶対に
 お母さんに叱られる



何とか1級をとったことは
黙っていよう。
だけどこの大きい景品が
見つかるとバレるから
こっそり家に帰って
何処かに隠しておこう。

家にそっと帰って
電気をつけず
暗闇の玄関で
隠す準備をしていたら、

運悪く祖母が
来てしまいました。

「みおいちちゃん、どうしたの。
 電気もつけないで。
 その大きい荷物はなあに?」

「......そろばん1級に
 合格したの......だけど、
 おばあちゃん……」

「まあ、すごいじゃない‼︎
 1級なんて!
 みんな‼︎ちょっと聞いて‼︎
 みおいちちゃんが」

「おばあちゃん‼︎
お母さんには言わないで‼︎‼︎

私がこう言う前に
祖母は母たちに伝えてしまいました。

「お義母さん‼︎
 当たり前ですよ‼︎
 みおいちはさちより1年も
 長く通ってるんだから‼︎
 すごくなんかないんです‼︎

 さちの方がすごいんです‼︎
 さちの方が上手なんです‼︎
 それを、みおいちったら
 自慢ばっかりして‼︎


母は案の定
凄い形相で私を
叱りつけました。

高校1年の頃
旺文社の全国一斉
実力テストで、
私は100番以内に入りました。
98位だったか
そのくらいです。

賞状と景品を頂き
友だちは
「あんた凄いじゃん!
 塾にも行ったことないくせに
 全国だよ!全国で100位の中に
 入ったんだよ!」
と、大変に喜んでくれました。

家に帰ると
母と次姉がいました。


誰にでも本音をズバッと言う
大人にも媚びない
私とは正反対の強い次姉が、
私は大好きでしたが、
この頃次姉は
部活やバイトに忙しく
あまり会えませんでした。

私は嬉しくなって
母が隣の部屋にいる間に
実力テストの賞状を
こっそり次姉に見せました。

次姉は自分のことのように
喜んでくれましたが、
気づいたら母が聞いていて

「みおいち!
 何そんなことで自慢してるの!
まったく性格が悪いわね‼︎
 いい?まあは頭のいい
 学校に通ってるし、
 さちは毎回
 学年トップでオール5なの‼︎
 さちみたいに毎回
 学年トップを取ってから
 自慢しなさい‼︎」

と、怒鳴られました。


私はそれで
学校などで起こった
普通の家庭だったら褒められることは
決して母に言わないようにしようと
細心の注意を払い続けました。

高校の頃、
私が学校のパンフレットのモデルに
選ばれたことも、
音楽部の部長をやっていたことも、
母は知らないと思います。


次姉が就職と同時に
九州に配属になると、
ある日、母は
寝ている私を蹴り飛ばして
言いました。

何でさちがいないのに
 あんたがいるのよ‼︎


時系列が前後しますが、
私は中学に上がる頃には
毎日胃薬を飲まないと
胃が痛くて仕方がありませんでした。


朝は胃が重くて
卵を食べると吐きました。
歯を磨くついでに
吐いてしまうことも
普通にありました。

いつも気持ちが悪くて
パン屋さんやお蕎麦屋さんの前は
においで吐きそうになるので
通りたくありませんでした。

朝起きると
涙が出ていることも
よくありました。


自分に価値が見つからなくて
いい子のふりをするのに必死でした。


大学の文化祭で
心理学研究会の友人のところで
かなり専門的な心理テストを
やってもらったところ
内罰」という項目が強すぎて
欄外はおろか
紙の外まで出てしまう、
と言われました。

内罰というのは
自分を責める気持ちで、
これが強いと
本当は自分に非がなくても
人に言われると全て
自分のせいだと思い込んで
しまう
そうです。


私は生きている価値のない人間だと
幼少期から長い間思い続けていて、
生きていることに罪悪感があって、
遊びに行くと顕著に
その傾向が現れました。

映画を見ていると、
TDLに行くと、
自分が自分を責めるのです。

「あんたより価値のある人間が
 食べられなくて死んでいるのに
あんたみたいな空っぽの人間が
 遊んでいていいのか!


急にこの考えが
私を襲って
体が冷たくなるのです。

私は恐怖でたまらなくて
20歳になってすぐに
ワールド・ビジョン・ジャパンの
チャイルドスポンサーを
はじめました。 

月に4800円
貧困地域に寄付し続ける
というものです。

完全なる身勝手な動機です。
何かしていないと
生きている罪悪感に
押しつぶされそうだったのです。


あ、二酸化炭素を吐いた。
あ、ゴミを出した。
なんて自分は
悪い人間なんだろう!って。


私は母から逃げるように
高校生活は部活の後のバイトに
明け暮れて、
大学もバイト三昧、
新卒で家から通えない
特養をわざと選び
一人暮らししました。

その頃、祖母が
亡くなりました。

その後、英国にいる時に
来た母からの手紙。
これには仰天しました。

あなたのことを
 尊敬しています。

 大変だったらいつでも
 帰っていらっしゃい。
 帰るところはちゃんと
 あるのだから」

......はい?


どの手が
これを書いたのでしょう?
宛先間違ったの?
これ、姉宛じゃなくて?


母は祖母の死後、
信じられないほど
人が丸くなったのです。


今、私は母と仲良くやっています。
いえ、昔だって
良い成績と悪い成績と普通の成績を
取らなければ、
つまり成績のことでなければ、

また容姿のことでなければ、

祖母になついていること、
父に取り分け可愛がられていることが
なければ、

その他のことは
良い母親だったのです。


母は丸くなりましたが、
私の自虐思考は
なかなか治りませんでした。

私は20歳の頃から
継続してチャイルドスポンサーをして、
社会人になってからは
給料の1割以上をそれとは別に
寄付し続けて、

そうしないと罪悪感で
生きていけなかったのですが、

この行為が何とか
私をなだめてくれました。

英国から帰国後は
ワールド・ビジョンで
翻訳のボランティアを
はじめました。

貧困地域の子どもたちの手紙を
日本語に訳すのです。

これで私はいろいろなことを
知りました。

親が当たり前にいない国が
あること。

サッカーボールを
バナナの木の皮で
自分で作る少年。

先生の言うことを聞かないと
鞭で酷く叩かれる国。

キャンディーをチョコレートと
呼ぶ国。

頑張らないと小学生でも
留年してしまう国。

この経験が私を
日本語教師に向かわせたのかも
しれません。


情けは人の為ならず。


そんなありふれた物言いが
ボランティアなどを行った方は
本当だ、と身に染みて
実感されているでしょう。


私は相当にブラックな意味で
このことばが本当だと
思っています。


本来の意味であれば
人を助けることは
自分を助けること。

それは、良い経験の意味だったり
わらしべ長者的なことだったり
するのでしょうが、

私は私の存在を
何とかワールド・ビジョンへの
支援によって
価値あるものだと無理やり
思うことが出来たのです。


今ね、私は
かなりいろいろ経験したので
この辺のことはすっかり
跡形もないかのように
過去のことになっている
のですが、


今、苦しい人。

自分に価値がみつけられなくて
あえいでいる人。

特に若い人。


どうしようもなくて
苦しくて、世界が暗く見える人。


少しね、
支援でもやってみるといいよ。


これは決して
純な動機ではないし、

人の不幸を見て
自分と比べて
まだ自分の方が幸せだと
気づけ、と言っているのではない。


だけど、
自分の存在が役に立っているって
少しでも思えることが出来たら、
それはとても大きいものになる。


何とかそれで足場を見つけて、
それで生きてさえいたら
あとはね、
経験が助けてくれるから。

悩むことも、そんなになくなるし
楽しくなるし、
朝、毎日気持ちが悪いことも、
人知れず泣いてばかりいることも、
泣くことさえ出来ないことも、
経験が解決してくれるから。


少しの足場でいいの。
もしつらいなら、
自分のために、出来ることを
やってみて。

それはきっと
あなたの助けになるから。


noteでもできますよ、支援。


P.S.
あいや~!!
また暗くなっちゃった!!
しかも長っ!!
企画参加記事なのに
ごめんなさい🙇レシーブ緒方さん!

自分がやった支援を辿って行くと
どうしてもココに辿り着いてしまいます😅




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