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0665.平和と相性


今年に入って映画をたくさん観ている。といっても相変わらず家からほとんど出ない生活をまんきつしているのでアマゾンプライムの中でなんだけど。

すがこさんが「今年は映画を20本観たい」的なことを書いていたのを読んで、おお、それって良い!と思ったのだ。毎年わたしは「ひとつきにせめて1本は映画を観たい….!」とかいいつつも、どうも本や音楽や海外ドラマの優先度を上げてしまい、映画に余力が残っていないということになる。

けど、今年は仕事をかなりセーブしているということもあって、なんと今月だけで6本も観ることができている。なんということ….いままでの「できなかった」はいったい….。
なんかこのままいけば、年間そうだなぁ、30本くらいいけそうじゃない?という気がしてきたので、今年の目標のひとつとして

映画を30本観る(自宅 / 映画館、新旧問わず)。

ということにする。ヤダなんか謝りたくなっちゃう。すみません、こんな数字で。でもわたしのライフスタイル的にちょうどよい強度のストレッチの効いたラインなんです。
いまのところ、30本中6本なのでいいペースなのではないでしょうか。


目標にしたとたんにドキドキするのは、にわかにゲーム性を帯びて気分が高揚するからだろう。

この、「目標」というしばりやゲーム性にドキドキ感や高揚感を覚える感覚は”男性性”の領域で、「目標」と聞いたとたんにしばりや重さを感じて、目標自体をうやむやにしたくなるのは”女性性”の領域です、と個人的には考える。

うやむやにするというと聞こえが悪いけど、なんというか「ゴールまでの直線思考(男性性)」ではなくて、その周辺も含めていきたい「ゴールまでの螺旋思考(女性性)」というのがそれぞれの動きの質のちがいだということです。
どちらに面白みと心地よさを感じるかということで、どちらにも感じることができると、どちらも選べる。

わたしはわりと「ゴールまでの直線思考」ってきらいではないので、目指したからにはやっちゃうよ? っていうか、せっかくだから倍くらい目指しとく?みたいな思考になる。制限をつくる、というのはゲームの基本だよね。
手しか使っちゃだめ、とか足しか使っちゃだめ、とか3歩以上進んじゃだめ、とか王様を取られたら負け、とかさ。

それで実は、わたしは毎年自分の「手書きのノート / 手帳」というものを刷新していて、まるまる新しく使い始めるページと、去年からの内容を引き継ぐページというのがあって、地味にこつこつと移行作業というのをやっている。

たとえば去年のノートに「映画ログ」というページがあって、そこには観た映画リストだけではなくて、まだ観ていないけどいつか観たい映画というものも並列でリスト化されているので、その「未鑑賞映画リスト」を、昨年度のノートから今年度のノートへと引き継ぐ作業が発生するのである。このデジタル時代に、なんと手書きで(笑)。楽しいからいいんだけど。

で、その引き継いでいるリストがさあ、『ウィンストン・チャーチル』とか『ダンケルク』とか『Uボート』とか『エニグマ』とか、もうもろにガチで「あーはいはい、あなたこのリスト作ったとき第二次世界大戦における戦争人間ドラマにドはまりしていたんですね? ありましたありましたそんな時期!」っていう記憶がよみがえってくるんだよね。それもまたおもしろいと言えばおもしろい。

マイブームは去っているものの、去年の俺が観たかったというのだから、観てやるか…..成仏しろよ…みたいな気持ちでとりあえず『Uボート』観ました。
1999年のディレクターズ・カット版。
だれも興味があるひといないだろうし、わたしも「すごい映画だ。観てよかった」と思うけれど、強くおすすめはできないものなので、概略は引用ね。

概要
第二次世界大戦中にロータル=ギュンター・ブーフハイムU-96に同乗して取材した経験を基にした小説『Uボート』(原題:Das Boot)を原作とし、当時大西洋を席巻したドイツ潜水艦Uボートの艦内を舞台として、極限状態における人間のありようをリアルに描写した戦争映画。(中略)
1982年に映画がアメリカ合衆国で公開されると、同年のアカデミー賞で6部門にノミネート(監督、撮影、視覚・音響効果、編集、音響、脚色)されるなど、国際的に広く評価された。また、監督・脚本を手がけたウォルフガング・ペーターゼンは、本作をきっかけにハリウッドへと進出することになった。 構想から完成まで4年の歳月を費やし、3200万マルク(当時のレートで1850万ドル、約40億円)という巨額の製作費の下(ドイツ映画としては1927年の『メトロポリス』に次ぐ規模)でUボートの実物大レプリカが建造された。このセットを用いたリアルな艦内描写が作品の中心に据えられており、物語が進むにつれ薄汚れ・髭だらけになり匂い立つばかりにまで演出される乗組員の有り様が、他に類を見ない迫力を出している。本作の出演者は当時無名の俳優たちであったが、本作を出世作として以後活躍している者も少なくない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/U・ボート_(映画)

この中では、Uボートの戦いを取材するために歴戦の艦長と古参のクルー、若者ばかりの水兵を乗せたU96に一緒に乗り込んだ報道班員のヴェルナー少尉という青年がメインの視点で語り部的な役割なんだけど、彼は表向きは報道の仕事のために同乗したのだけれど、途中でこんなセリフを口にしていた。

「極限状態を体験しないといけない、と思ったんです。
母親たちが自分たちを探さない世界に、
女たちが自分たちの前に現れない世界に行って、
そこで本当の現実を体験しないといけないんだ、と。」

そしてちょっと自嘲気味に、艦長に向かってつぶやくのだ。絶体絶命がエンドレスでつづく、日も差さないし水も食料もあまつさえ酸素さえも減り続ける、水深300メートル近い海底で。

「今、ここが、現実なんですよね」


なんかこう、切ないとしかいいようのない気持ちになってしまった。男のひとたちのリアルな心象風景って、こうなんだろうなあと思って。
母親に気持ちよく守られて、恋人にあたたかく寄り添われて、それは悪いものではないはずなのに「それだけがある平和な世界」というものを、彼らは決して現実だとは認識しないのだろうな、と思って。

松村潔先生が18歳で家を出たのも、「このまま母親のもとにいたら、母親というカーテンのような、真綿のようなものにくるまれて死んでしまう(損なわれてしまう、だったかも)」という危機感を覚えて、むりやり家を出た、みたいな話をしていたもんなあ。
いや、その感覚めっちゃ大事!と思うけど。

男性と、最初から最後まで満ち足りた平和、ってものすごく相性が悪いんだろうな。彼らの心象風景の中のリアリティーを満たすために、平和は相性が悪くって都合が悪くって、戦争や競走や争いや問題や紛争が絶対的に必要で、そういう意味ではドイツのUボートはまごうかたなき地獄だったのだけれども、そして表面的には「そこにいることを誰も望んでいない」のだけれど、もっともっと深層を見ていったらきっと「そこにある生と死のギリギリの極限を体験したい、そしてより生を強く感じてみたい」という願いがあって、その深くて強い集合無意識的な願いこそがじつは叶っているんだろうなあ。

とか思いながら観ていたのでした。もうしばらくは戦争人間ドラマからは遠ざかろうと思います。あんにょん!

(3000字over….)
(病気だ)
(脳の障害かなにかなのか...?)
(読めるものなら読んでみろ、という気持ちになってきつつある)


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