わたしのこれまでの人生はひとつもまちがっていなかった
さわやかな秋晴れの中、かんくん(中1息子)の野球の練習試合を見にグラウンドへ。中学野球になると練習試合のこと「オープン戦」っていうのね。知らなかった。カッコいい……。
学童野球を経て中学野球に入ると、硬式でやるか軟式でやるかの二択となり、前者はシニアやボーイズへ、後者は軟式のクラブチームか部活動に入ることになる。
かんくんは、知り合いの監督から「きちんと投手として育ててやるからうちにこい」と言われていた軟式クラブチームへなんの迷いもなく年明けには加入し、4月にはメンバーが決まって、夏にはわちゃわちゃと合宿を経て、もう半年になろうとしている。
スタメンもだんだん固定されてきて、彼はピッチャーでは二番手か三番手くらいのポジションながら、かなり堅実な制球力を買われて中継ぎかストッパーとしてしっかりと自分の仕事をするようになってきていて、おもしろいなあと思って眺めている。
なにがおもしろいかって、わたしは彼の母親なので彼の個性というものをじっくり見て、成長をサポートしているわけだけれども、監督やコーチもまた全くちがう視点で(野球チームを勝利に導くというビジョンのもと)、彼の個性を見て適材適所に配置し、その成長を見ようとしてくれているのがおもしろいと思うのだ。
男の子の成長において、周りの大人の男性ってとっても大事だと思う。今のところかんくんは、指導者にもチームメイトにも恵まれてすくすくと育っている。
そしてこんなに秋晴れの金色に輝く西日のしたでマウンドに立ってナイスなピッチングをしていて、わたしはそれを同じチームのママ友たちと並んで楽しく応援をしている、なんて。
なんだか自分の人生にこんなにピースフルでやわらかな日々が訪れるとは若い頃は思っていなかったので、あのときヒリヒリと生きていた10代、20代の自分に教えてあげたいよな、と思う。
でもあの頃のヒリヒリと凍てつくような痛みとともにあった日々も、わたしは「死にたい」と思ったことは、そういえばなかった。いつでも「生きたい」と思っていた。ちくしょう、死んだように生きてやるぜ、と思ったときもあったけれども、それでも末尾の言葉は「生きてやるぜ」だった。
もしかしたらわたしが今日、金色の日差しの下で全力でボールを投げる息子を見ながら「この子に会えてよかった、この子がいるのだからわたしのこれまでの人生はひとつもまちがっていなかったのだ」と強く思ったその気持ちが、時空を超えて過去の自分に届いていたのかもしれない。
過去の自分がいつでも1ミリだけでも希望を失わなかったのは、未来の今日のわたしからの呼びかけのおかげだったのかもしれない。
だってきっと今の自分も、かつての自分も、同じところに同じ瞬間に存在しているのだから。
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読むと生きる力が湧いてくるので、全人類が読むといいのではないかと常日頃から思っている北沢由宇さんのnote。はーしびれる。いつかかんくんとゲストハウスに泊まりに行くって決めている。
息子がこんな大人に育ってくれたらいいなあ!
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