153.誰かにとって大事な誰かを、誰かに大事にしてほしいという気持ち
ずっと引っかかっていたことがある。うまく書けるかな。
女友達と話していたとき「息子をとても大事に思う母」という人種の話になった。というか、この話にはよくなる。子どものいない女友達や、はたまた女の子を持つ母親であるママ友たちとの話題で、”とにかく息子を溺愛している母”というトピックが出てくる。その溺愛ぶりを、ちょっと揶揄するような、苦笑するような、そんなニュアンスがいつもある。
息子を持つ母たちは心当たりがあるだろう。もちろん例にもれずわたしもそんな母のうちのひとりだと思う。かんちゃんをとても大切に思っているし、娘に対する愛情と息子に対する愛情は、ちょっと種類がちがう気がする。誤解を恐れずにいえば、息子への愛は異性への愛に限りなく近いと思う。
そんな息子ラブな母たちについて、「怖いよね〜」「そりゃあ、男がマザコンにもなるよ」みたいな流れになって、ちょっと「ん?」と思ったのだった。
母が息子を溺愛するあまり、彼を「自分の人生における最高で最後のオトコ」にしてしまうので、もちろん息子はそんな母をいちばんに愛する。なので、息子に彼女や恋人ができると即、そこにはコンフリクトが生まれる。それが怖いよね、と。
たしかにそうだと思う。敬愛する吉本ばななさんも「嫁と姑は、いちばん大切なものを奪い合う関係なので、ほんとうに仲良くなるのはむりだ」みたいなことを言っていた。それに対して、わたしは母なので姑サイドからの視線を持ち、母ではない女友達は嫁サイドの視点を持って語っている。
「息子に、彼女や恋人ができたり、嫁ができたりしたら、その相手の女性を嫌うのでしょう?」と、問われている気がした。
でもね、なんかわたしはきっと、かんちゃんがどんな女性を連れてきても「いやだね!気に入らないもんね!」って思うことはないんだと思うのです。でも、どんな女性を連れてきても、母だからわかってしまうと思うのです。
その相手の女性が、どのくらい彼を大事に思っているのかを。
そして、嫌うというか、どんなに大事に思っているとしても、自分が注いだ愛と時間とエネルギーを見たときに、自分以上に彼を大事にはしないだろうということが、わかってしまうと思うのです(そんなの当たり前なんだけど)。
そこで一度、母としての失意のようなものを経験するのかもしれない(しないのかもしれない)。
だから、誰でも彼でも気に入らないわよ!っていうよりは、ああ、このお嬢さんは、このくらいの気持ちを持っているんだろうなー。というのは、見抜かれると思います。そしてわたしも見抜かれていたのだろう、お義母さんには。きっと。
息子が生まれたら、息子がいちばん大切なオトコになってしまうのか?という疑問については、熟考の末「イエス...でもあり、ノーでもある」と答えたい。イエス。もちろんなる。最高にいとおしい男の子が、脇目もふらず全身全霊で自分を求めてくる、という体験に、胸をふるわせない女性はいないだろう。どれだけ愛してもいいオトコなんて、この世になかなかいないのだから(だから宇多田ヒカルの名曲『俺の彼女』の彼女はいつも愛の重さを加減しているではないか。そして疲弊している)。
けど、あるときわたしは気づいたのだ。
わたしは息子を愛している。こんなに大事な存在はない。わたしの命より彼が大事だ、そう思う。そして、この世のすべての母たちが、そんな想いで(やり方はどうあれ)自分たちの息子を愛してきたのだ。
わたしが軽んじたあのひとも。わたしが都合よく頼ったあのひとも。わたしが傷つけたあのひとも。わたしが振り回したり、ガッカリさせたあのひとも。
あの男のひとたちはみんな、誰かにものすごく深く愛された、誰かにとってのとてつもなく大事な、小さな男の子たちだったのだ。
それに気づいたとき、けっこうガーンとなってしまった。そして、出会って関係してくれた男性たちみんなに謝りたいような気持ちになった。ごめんね、あなたたち、誰かに宝物のように大事にされてたひとたちだったのに。わたし、知らなくて。バカで、なんにもわかってなくって、ほんとうにごめん。
息子がとても大事なひとになって、わたしは夫を見る目が変わったと思う。彼は、お義母さんの大事な男の子なのだ。お義母さんが、一生懸命寝ないで抱っこしたり、手を繋いで歩いたり、いっぱい本を読んであげたり、転んだら「大丈夫よ」って、「強い子ね」って言って抱き上げた、彼女のたったひとりの宝物だったのだ、ということを、頭ではなくて身体でガツンと思い知った。
イエスでもある、というのは、もちろん息子が最高に可愛い、大事な男の子だということ。でも、ノーでもあるというのは、その彼を育てて愛情を注ぐという体験をとおして、初めて本気で夫を大事にしたい、彼をほんとうに幸せにしてあげたい、と思えたこと。
誰かにとって大事な誰かを、誰かに大事にしてほしいと思う気持ち。
タイトルは、窪美澄さんの『やめるときも、すこやかなるときも』という小説の中のフレーズからの引用だ。
そう、だから、姑的な存在を「怖い」と感じている嫁的な存在のみなさんに言いたいのは、いえいえこちらもね、やみくもに敵視しているわけじゃないんですよ。ということです(笑)。
たぶん、わたしにとって大事なこの子を、あなたに大事にしてほしいって、ただそれだけなんだと思うんです。
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