162.恐怖をまぎらわすための代償行為
関東地方はいっしゅん雷雨になったくらいで、夕方には金色の西日がまぶしくきれいな一日だった。九州のみなさまのご無事をお祈りしています(裕也くんもりかさんも大丈夫かな)。被害に合われている方の大難が中難に、中難が小難に、なりますよう。
この週末は、きっと金曜日に思うぞんぶん大自然の中のアウトレットを堪能し、ゆきさんと肩まで立って入れるくらいの深い温泉につかりながら、富士山を眺めたせいだろう、とても満たされた気持ちでいろんなことができた。
自分が満たされたので、自然にまわりを満たしたい、と思えたんだろうな。土曜日はせっせと餃子を50個ほど包み、じゅうじゅうと焼いたり、日曜日はネギダレたっぷりの油淋鶏をつくったりした。きんぴらごぼう、春雨サラダ、豆もやしのナムル、だし巻きたまご、きゅうりとわかめとしらすの酢の物。どれも特別ものすごくおいしいっていう感じではないかもしれないけど、なんていうか、おうちの味のするいろいろなものをつくった。
星がつく美味しさ、ではないよね、きっと。でもわたしの中でひとつもいやな気持ちがない状態でつくったものなので、食べたひとの身体にはやさしい味なんだろうな、と思う。
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どうも、いろんな情報が入ってくるせいで「読んだつもりに、知っているつもりになっている本」というものがあるので、いやいや、つもり、じゃダメでしょうよ。と思い直し、もう出版されてから10年とかそれ以上経っていて、「常識的にそれ読んでるよね?とっくに?」という認識でいる小説を読んでいる(前置きが長いってば)。
たとえば、『紙の月』(角田光代)とか『バッテリー』(あさのあつこ)とか『探偵はバーにいる』(東直己)とか『ネバーランド』(恩田陸)とか『桐島、部活やめたってよ』(朝井リョウ)とか。
要は、知った気になっている小説を見つけたら、かたっぱしから買って読んでいるのだけど、とても楽しい。『ネバーランド』なんて2000年刊行だ。20年前の本なのか!と驚く。本屋さんで浦島太郎になっているような状態だ。わたしはほんとうに、小説が読めなくなっていたんだなあ。やれやれ。
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よく、「このままなにも起こらず、ただすべてを失っていくだけの人生だったら」と考える。多くのひとは、もしかしたらものすごーく不幸になることより、ドラスティックに波乱万丈の人生でドカンとどん底に落ちることより、このままじわじわと「なにも起こらず、なにも変わらず、ただ人生が終わっていく」ことを、いちばん恐れているのかもしれないなって思う。
50を目前に、すてきな奥さんがいて、可愛い子どもたちもいて、仕事でもそれなりの地位を獲得しているような男性がふいに不倫に走ったりするのも、はたから見れば「ばかだなあ」と見えるのかもしれないけれど、たとえば自分のピークをいつの間にかすぎていて、じわじわと終わっていくそのことに耐えがたさを感じるんじゃないかな。恋に狂うとか欲に溺れるというより(もちろんその要素もあると思うけれど)、「俺、このまま終わっていくのか?」というところに、恐怖を感じる気がする。
若い女性に走る、というのは、若さに溺れるというより(もちろんその要素も以下同文)、彼女が持つ可能性の輝きに自己投影したとき、もう一度自分が輝けるような、彼女といるときに落ちていくだけじゃない自分を感じられるような、そういう魔法があるんだろうなって思う。だから、恐怖をまぎらわすための代償行為なのかな、とかね。恋愛感情の9割は性欲ですからね(わたしが採用しているだけの説ですので悪しからず)。
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このまま終わるなら、終わればいいじゃん。そうしたらわたしは、なにも起こらない、なにも変わらない日々の中で、数えきれないほどたくさんの小説を読もうと思う。そして毎日、noteに(あるいはノートに)文章を書いていようと思う。それで人生が終わるなら本望だ(あとはBTSの幸せを祈って過ごすことにする)。
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