0844.迷ったら、歩く。行き詰まったら、歩く
すごく優しい友だちがいる。
あまりにも優しくて、優しくて、優しいので、なんでも許されてしまうような気持ちになる。そしてややもすると、自制しないことには彼女の優しさに甘えて、彼女の領域へとずぶずぶと侵襲してしまいそうになっている自分に気づいたりする。
距離感やお互いの自主独立ということにコミットしたいと願いつつ生きているので、かろうじて、というレベルで踏みとどまっているつもりだけれど、彼女の周りでそんなふうに自分でも気づかないうちに侵襲してきてしまうひとたちは、いるだろうな、と思う。
もちろん彼女が悪いなんてことはない。ただ優しいのだ。まるで祈りのように。
「わたしに、あなたみたいな友だちがいることがとても幸せ」
と、彼女に伝えたことがあった。そうしたら彼女は笑って、
「そーお? そうかも……? たまに、”わたしにも、わたしが欲しいよ”って思うことがあるもん(笑)」
と答えた。
それを聞いて、なんだか切ない気持ちになったのだった。あなたたちにはわたしがいるけど、わたしには誰もいないんだよ、と、言われたような気がした。
幡野広志さんの著書に『ぼくが子どものころ、ほしかった親になる。』というタイトルの本がある。なんという凄まじいタイトルの本だろう、と、本屋で見かけたときは激しく戦慄したものだが(そこに込められたものの重さに)、彼女はどこかで
「わたしが子どものころ、そばにいてほしかった大人になる。」
と、決めたのかもしれないな、と思った。子ども時代の記憶は、控えめに見積もって、永遠だ。
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なんとなく動きの回転があがってきたな、と思いつつ、「どうにも重くてできない」と感じていたいくつかの仕事を終えた。けれど、これでよかったのかな。わたしはなにかとんでもない過ちをおかしているのではないか。
もう、取り返しのつかないほどの、過ちを。
と思ったらものすごく気分が落ち込んできたので、夜、ささっと作った親子丼を子どもたちと食べたのち、あてもなく散歩に出ることにした。
靴下も履かずにはだしにサンダルで、Tシャツとヨガパンツというてきとうなかっこうで夜道をてくてくと歩いた。いつの間にか靴擦れができて皮がむけて「イテテ」となったので帰ることにしたけれど、2キロくらい歩いたろうか。
歩いているうちに、胸をふさいでいた重苦しい思考は晴れていた。晴れやか、とまではいかないけれど、さっぱりとした心持ちになった。歩くって、動くって、いいことなんだなあ。
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