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0616.わたしがそれをしたのは、それがわたしに望んだから


やっと長らく服用していたぜん息の薬から脱却。完全な健康体とか目指していないけれど、長く薬を常用している状態というところ、いつまでも通院がつづく生活というところをまずは抜けたかったので嬉しい。

さて今日はわりとゆっくり過ごしていて、いろんな「やりたかったけれど手つかずのままだった家のこと」を終えた。リビングにあるクリスタルファウンテンの手入れをし、がさっと画鋲で止めていただけだった子どもたちの絵をやっと額装して壁にかけた。そうしてみたらとても素敵で、前の状態の5割増で作品の良さが引き立ち、インテリアとしても見栄えがよくなったので「なぜ前の状態で平気でいられたのだろうか? 信じられない」という気持ちになった。

起こしたアクションによる変化で目の前の景色がアップグレードして、もう以前には戻れない、変化したいまがすごく気に入ったから、と思うとき、たかが子どもの図工の絵の額装なのだけれど、ちょっと世界線が変わるのだと思う。

ちなみに奥行きのある作品だったので額装に使ったのは立体額という種類のフレームだ。色ちがいにして、まあまあの値段。だからといって画鋲でブッ刺すのはタダで、立体額が高い、だからお金を使う豊かさ世界線へのアップグレードです。という話ではなくて、それこそ「目がゆきとどく」という話なのかもしれない。
あるいは「耳をすます」ということ。

わたしは壁に飾ってある子どもたちの描いた絵が好きだった。明るいピンクと黄色の絵はうたちゃん(中2娘)が小学生のときに、紺にキラキラした宝石が散りばめられている絵はかんくん(小5息子)が1年前くらいに描いた絵で、うまいかへたかはわからないけれども見ていてなんだか楽しい気持ちになる、幸せな絵だと思った。この絵を見ていると、この子たちもしかしたら幸せなのかも、と思えるのだった。


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画鋲で貼っているときも、もちろんそれらはキラキラしていたし、わたしもふと眺めては温かい気持ちになっていたけれど、ちょっとだけ違和感があった。違和感というか、余地というか。
なんといえばいいのか、もう少しだけそれらに対して「ていねいな扱いができる余地」というものがあるような気がして、それが気になっていた。

そのアクションの行き着く先は単純に「額に入れて、壁にかけて見ました」というだけの話なのだけれど、その絵を眺めながら「なにかの余地がある。けどそれがなんなのかはっきりとはわからない」と感じ続けることと、目の前にいるクライアントの話を聴いたり、クライアントからの文章を読んだときに感じることは、わたしにとってはほとんど同じことなんだな、と思った。

わたしが絵と向かい合いながら「そうだ、この絵を額に入れよう」と思ったと同時に、これらの絵は「そうだ、わたしたちはちゃんと額装されて壁に飾られましょう」という意識にあったはずだ。わたし(主体)が絵を額に入れた(客体)、という主客の文脈は必ずどこかで逆転し、溶け合い、一体化するのだ。

わたしがセッションやプログラムを通してやっている(と認識している)ことは、すべてこういうことが起きているのだな、と思ったのだった。


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