緊急博物館
「行ってきたよ」
彼はそう言って、ボストンバッグを床に置いた。とても疲れているように見えた。
「おかえりなさい」
とりあえず私は湯を沸かして、コーヒーを淹れることにした。リビングのソファに座りこんだ彼は、目もどこかうつろで、まだ旅先の風景から戻ってきていないような雰囲気だった。
緊急博物館。
彼の目指したその場所は、期間限定で、行く度ごとに内容の変わる今だけの博物館だった。
今年の始めに日本海側の半島で起きた大地震と津波。甚大な被害をもたらしたその災害の復旧作業は今もなお続いており、人々が元の生活に戻れる見込みはまだまだ立っていない。
被災地から次々に運び出される壊れた生活道具たち。それを無事だった町の公民館に集めて展示しているのが、緊急博物館だった。
展示物は、刻々と変わる。壊れてヒビが入り、泥のついたままの様々な道具は、現場から次々と持ち込まれ、それにつれ、会場から運び出された。
テレビや冷蔵庫といった電化製品。
座卓やコタツ、椅子のような家具類。
お茶碗、お皿、お箸にコップ、湯呑み。
外国ブランドの化粧水の瓶やクリーム。
人気キャラクターの人形やグッズ。
濡れて波打つ本、雑誌、新聞。
泥だらけの洋服。靴。帽子。かばん。
メガネや入れ歯、補聴器、杖。
それは、昨日までは日常だったものが綺麗に奪いつくされた跡だった。そしてそれは「そこには決して並べられないもの」を、その存在を、強く印象づけるものだったという。
「時間が止まってしまったんだ」
「それまではそれぞれの場所で歌ったり眠ったりしていたものたちだから」
「急に時間が止まってしまって黙ってしまっている」
「声のない音であふれて、とても騒がしい部屋だった」
私はコーヒーをテーブルに置いた。
彼はそれを飲まずに、じっと動かない。コーヒーから立ちのぼる湯気を見ていた。
「コーヒーの香りを嗅げるから、コーヒーがあるんだ。コーヒーを飲めるからコーヒーがある。コーヒーを感じられないなら、コーヒーは無いのと同じなんだ」
「どういうこと?」
「ぼくたちは生きていることの本質を知らないくせに生きてるんだと解った。目の前にあるものが、ずっとあると思っているけどそうじゃない。」
「今しか感じられない、うつろいやすいものが命の、生きてるってことだと解ったよ」
彼は目を閉じたまま動かなかった。そうしてその閉じた目から涙が伝った。
「疲れたでしょう。眠ったほうがいいわ」
私はそっと彼の肩を抱いた。彼は静かに涙を流れるままにさせていた。
「緊急博物館は、いつか空っぽになるだろうけれど、そうしたらそこは、なんだか月に似ているような気がするんだ」
「なぜだかそんな気がするんだよ」
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