豊かさとは何か。 そう考えることのできるこの小さな余白こそが、それなのかもしれないと思う。 ただいつも通りに、疑問を持つことさえなく進み続ける足を、ふと立ち止まって、というより、何か小さな石にコツンと当たって歩みを止めてみたようなとき。 大人になるにつれて、自分の見たくないものには、自由にシャッターを下ろしたり蓋を閉めたりできるようになっているのではないかと恐ろしくなる。 平等に、公平に、まっすぐな気持ちで、目の前に広がる世界を見ているのか。 触れた経験と記憶がころころ
日に日に新しい自分に変わっていく感じ。 去年の自分とは、先月の自分とはちょっとだけ何かが違う感じ。 そんな感覚でいられる自分が、なんだか不思議でたまらない。 たぶん今は、わたしが好き。 今のわたしがちょっと好き。 数年前の自分には、想像もつかなかった、思いつきすらしなかったこと。 自分と向き合う時間を、またしても忘れがちな今日この頃。 今日だけは、少しでもいいから作ろうと、そう決めていました。 歳を重ねるということが、充足と希望に近いようなものに感じられることに、まずはあ
流れるように過ぎていく毎日に、置いていかれそうで。 なかなか綴ることができていないけれど、 留めておきたことを忘れないように。 「ほんとにこれは、けっこう落ち込んだ。」 「わたし、この件は、しばらく引きずることにする。」 目の前に立ちはだかる壁に直面した彼女が発したこの言葉に、 スッと頭が上向くような、ちょっとだけ自分の姿勢が良くなるような感覚がした。 病む。 陥る。 落ち込む。 気が沈む。 こういう状況って、自分の力では抗えないものだと思っていた。 抜け出そうと頑
ありがたいことに、毎日ばたばたと忙しく過ぎてゆく。 こんなチャンスきっとないってことに、たくさん出会わせてもらっているし、誰かに必要とされていることは、とても喜ばしい。 ただ、やってもやっても手応えがないこともある。 疲れ果てているのに、果たしてそれだけの結果があったのかと思うこともある。 するすると流れ過ぎていく時間の中に、自分の体が、脳みそが、 置いて行かれているだけのような感覚も覚える。 こんなとき。 もともとの性質につられていくと、 高い確率で、ネガティブモードを
自分に心地いい暮らしとは?好きなことって? そんなことにたくさん気持ちを向けてきたここ数年。 いよいよ、わたしの暮らしが、大きく前進しようとしています。 「シェアハウスに住んでみよう計画ーーー!!!」 今いる場所もいいけれど、 やっぱり緑を欲するわたしの身体。 自然がすぐそばにある場所を追い求めておりました笑 自然の風が通り抜け、鳥の声や虫の鳴き声が聞こえてくるところ。 そして、誰かと一緒にごはんを作って食べたい。 たまたまそこにいた人でもいいし、仲いい仲間でも。 人
わたしの好きな音は、何もない音。 空気の音。澄んだ空の音。晴れた朝の音。 わかりやすく言えば、静寂。 人間が生み出した音が、何もないセカイ。 これがわたしには、一番心地いい。 そう気付いた場所は、奈良県天川村の山中。 神戸から電車に乗ってバスに乗って、合計3時間半くらい揺られたその先に、 深い緑の山々に囲まれた小さな村は、どっしりと待ち構えていてくれました。 何となく自信の無いわたし。 好きとか得意とか、これといっておもしろい自己紹介もできない。 まぁそんな自分も受け
天寿を全うする。 与えられた時間を生き切る。 そんな最期に寄り添う日々を、経験させていただきました。 出会ってからは、わずか2年余りという他人。 そこまで生きてこられた90年近くの時間を、わたしは知らない。 全く違う場所に生まれ、違う時代を生き、 そして偶然、この今という時間を共有している人。 あまり大きく笑うこともなく 言葉数も少なければ、 自分から主張することなんてほとんどない。 そんな謙虚な人です。 それなのに、 人を惹きつける不思議な魅力と いつでもそっと見
痩せたい!ダイエットする!と言いながら、3日坊主を何度繰り返してきたことか。 食生活を変えることも、大っ嫌いな運動を続けることも、わたしにとっては我慢の連続。心地よい時間や満たされる感覚という、ちっちゃな幸せの積み重ねを手放してしまうようなもん。そんなのムリムリ。 今日は雨が降ってるし。 このランチは付き合いだから。 あきらめる理由なんて、日々の中にいくらでも転がっていて。そして、まんまと楽な方に流される自分にがっかりすることの繰り返し。 そんなわたしが、今日できっかり
ある人に言ってもらった言葉。 「怖いって思うなら、最悪の場合っていうのを想像してみたら?」 「どうなってしまうことが一番怖いのか」 「それが分かればそこさえ避けたらいいし、案外起こらないことかも」 ほう。 なるほど。 わたしが恐れている何か。 「怖さ」の起源となるもの。 これをつきとめてやろうではないか。 わたしは、思いつく限りの「怖いこと」を とことん書き出そうとしてみた。 広いノートのページ一面に、 ぜんぶぜんぶ書き尽くそうと思って シャーペンを握った。 「
25歳、 「怖さ」の探究、なんて、やばいなぁと改めて思いつつ。笑 でもやっぱり、わたしっていう生き物に、存在に、 ちゃんとスポットを当てようとしている自分に、 素直になってあげたいと思う今日この頃。 そういえば、小学生の夏休みにあった 「自由研究」の宿題が意外と好きだったような。 その期間、ぐいぐいっとエネルギーを費やして調べたり考えたりすること。 そのテーマを、今年は何にしようかなぁって、夏休み前から考えたりして。 本を読んだり、人から情報を仕入れたりして、仮説を立て
なんでか、怖いって感情にたどり着くんだなぁ。 「わたし」を考える日々。声を聞く時間をつくる日々。 その中で分かったこと。 なにかと「怖い」って思ってるとこにたどり着く。 イライラしたり、恥ずかしかったり、ネガティブなわたしのその向こうには、いつも「怖い」がいる。 対人関係において、わたしはなにかと恐れているらしい。 自分に負の感情が向くことが怖いし、 ひとりぼっちになるのが怖い。 相手と意思疎通ができなくなることが怖いのかも。 リアクションが返ってこなかったり、
思ってたより自分のこと知らないよね、自分で。 あぁ、そういうとこあるのね、わたしって、って思うし。 自分だと思ってた像なんて案外、生きてきた歴史の中で都合よく育ててきた空想なのかもしれない。 自分を知るとか、自分をコントロールするとか、自分を受け入れるとか、抱きしめてあげるとか… 自分自身の取り扱いが、本当にいちばん難しいわけで。 わたしという生き物について、自分にしか責任がないのだからって思えば当然のことではあるけど。 誰かの評価や、ある人の言葉は、他者からの意見でしか
ずっと思考停止していた。 していた、というか、たぶんさせていた。 考えた先にあるものを見つめるのがイヤで、そこから逃げていた。 放棄していた。 足を止めると焦りがちなわたしが、今回はあんまりいなくて、 自分の内側から湧いてくるものを、じっと、ずっと、 ぼーーっと待ち続けてみた。 考えるっていうシステムを、 最大限に省エネにして、 ほんとうに、ただ、生きていた。 心臓が動くから、生きていた。 おなかが空くから、生きていた。 思考を止めると、心が迷子になっていた。 感情が
やりたいことリストアップ! ◎メイクのこと勉強して、自分に合ったお化粧できるようになる! ◎そろそろ、ほんまにダイエットする! ◎野菜をたくさん摂る!→とくに夜ごはん ◎髪型をかえる! ◎家の中に緑をおく! ◎バジルかミントの家庭菜園! ◎これまでは選ばなかった服に挑戦する! ◎すぐに音楽を流せる環境にする!→無線スピーカー手に入れる ◎体にいい食べ物を意識してみる! ◎着物を着る! ◎ボイストレーニング受けてみる! ◎なんかサークルとか習い事はじめ
ある人の言葉が、どうも暖かく繊細に胸に残っていて、どうしても記したくなった。 「言葉にすること自体が、比喩だと思う。」 時間をかけて考えたのち、話してくれたその話が、なんだかすっごく自分の中にすとんと落ちて残っている。 「まるで」とか、「〇〇みたい」とか、そんな表現を比喩って言うけど、それがなんか変な感じだ、と。 感じていること、浮かんできた感情、受け取った想い。 そんなものを、日本語で表そうとすること自体が比喩だって。 なるほど。 赤ちゃんの笑った顔を見た「かわいい」と
じいちゃんの声を、直接聞くのは、おそらく2年ぶりくらい。 変わらないドスの効いた暖かな声は、どこか力がなくなっているように感じました。 世の中に、それまでにはなかった見えない壁ができ始めてから、あっという間にもうすぐ2年の月日が経とうとしています。 人が集まることが避けられるようになり、レストランで食事の時には、向こうが透けて見える壁が間に。白く覆うマスクは表情を読み取りづらくし、どこへ行っても消毒液に並ぶ行列。 そんな中で、おじいちゃんのいる施設が面会を全面禁止にするま