自分の「正しさ」を疑う

 そんなこと当たり前だろう、お前は何を言っているんだ、というような言葉を耳にすることがあります。そんなことを言う彼らにとって、彼らの持つ「正しさ」は、彼ら自身にとって疑われるべきものではないのでしょう。しかし、これはその正しくなさそうな相手も、自分自身も損をする考え方ではないでしょうか。

 世の中に、疑う余地が全くない、誰にとっても当たり前の正しさは、どれほどあるでしょう。例えば「戦争は良くない」と言っても、兵器のメーカの人にしてみれば、明日のご飯が食べられるか食べられないかの問題かもしれない。「人を殴るのは良くない」と言っても、いや、言っても分からない奴を指導するためには必要なことなのだ、と言う人もいるかもしれない。

 これも散々言われていることだろうと思いますが、正しさは相対的なものです。

 少しでもこういった考え方ができれば、相手が少し変わったことを言っているなと思っても、相手にとってはそれが正しいのだな、と考えることができます。もしくは、もしかしたら自分の「正しさ」は、その場においては比較的正しくないのかもしれない、と考える余裕も生まれるでしょう。

 つまり、相手に歩み寄るコミュニケーションができるようになります。

 相手の考え方を尊重し、汲み取り、お互いにとって最良の解決策を生み出す。コミュニケーションのあるべき姿はこうだと思います。それは、一方的に自分の考え方を押し付け、自分だけが得をするのではなく、相手と自分の幸せの合計がなるべく大きくなるように寄り添い合う。

 これは、対人関係のリスクを軽減するための方法の1つですが、このリスクを非常に小さく見積もる人がいるようにも思います。物理的な効率を求めているが、メンタルへの影響を考えない、最終的な生産性の向上につなげようという気がない。例えば、自分のやり方を押し付ける上司というのは、短期的には部下との意思疎通もとれ、仕事が早く進んでいるように見えますが、時間が経てば、その上司の考え方に染まりきって、柔軟な発想ができず、イレギュラーに対応できない、また、部下は自分の意見を発信しても意味がないと判断し、上司に対して委縮するようになる。簡単に言えば、モチベーションの低下。こういったことが予想されますし、これでは、長期的な生産性の向上にはつながらないでしょう。怒鳴ったり、人の話を聞かなかったり、というのは、それが憂さ晴らしのためであると開き直るか、生産性の向上を阻害するものと認めるかの2つにひとつだと思います。それらは両者とも、前向きな生き方とは言えないのではないでしょうか。

 自分は間違っているかもしれない、というのは、後ろ向きな考え方のように思われるかも知れませんが、「より良いもの」を求めていくときには必ず必要になる考え方です。自分の今やっているやり方が絶対に正しい、と信じることは、せっかくその余地が残されている場合でも、そのレベルアップの可能性を自らつぶすことになります。「間違っているかもしれない」は、「より良いものはないか?」とほとんど同義だと言えるでしょう。

 別にこれ以上レベルアップしなくてよいというのであればよいのですが、少しでも幸せな人生を歩みたいのであれば、こうした考え方は必要なのではないでしょうか。

 Think, think, think.

 


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