「現実論」と「理想論」があれば簡単にマウントポジションがとれる
だから、マウントポジションをとると良い、というお話ではありません。
大抵の物事には、現実的な路線の考え方(現実論)と、あるべき姿、あると良い姿を考える方法(理想論)があります。例えば、プロ野球選手になりたければ、理想論で語れば、リトルリーグに入って、野球強豪校に入学し、常に野球のことだけを考えて練習したり、生活のすべてを野球に捧げることになると思いますが、現実的には、経済的な理由で不可能であったり、学生であれば学校があって、勉強もそれなりにしなければならなかったり、野球以外のことを考えざるを得ない場合は大小さまざま、多々あると思います。
こういう状況を見て、経済的に難しいから地方の公立高校で頑張ってプロ入りを目指すという方針をとろうとした場合、「プロ野球選手になりたいのならば、甘えたことを言っていないで、金は度外視してでも理想を追い求めなくてはだめだ」と言う人がいるでしょう。しかし、また一方で、ひたむきに野球選手を目指す姿を見て、「理想を語るのは良いが、プロ入りは厳しいのだから、現実的には趣味としてやっていくことを考えた方が良い」と言う人もいるでしょう。
例があまりよくない気もしますが、つまり、大抵の物事には2つ以上の考え方があって、どちらもそれなりに正しさを持っているということが言いたいのです。
これを頭の片隅に置いておかないと、人が理想論を語れば、現実的な考え方ができない、理想ばかり追い求める馬鹿だ、と考えてしまうし、また逆に、人が現実論を語れば、理想的な状態とかけ離れた、妥協したところを目標にしている何とも志の低い馬鹿だ、と考えてしまうことになる。考えるだけなら問題ないのですが、それを何らかの形で表現してしまう。それも、一人の人間が、理想論側にも現実論側にも立って表現することができ、また一定の根拠らしきものをもって非難することができる。マウンティングができてしまう。
両方それなりに正しいのだから、正しさをもって人を攻撃することが可能になるため、気持ちのいいマウンティングができます。こういったマウンティング、みたことないでしょうか。
誰でもできる気持ちのいい攻撃、マウンティングは、一応年功序列の文化が根付く日本社会においては、「上の立場」の者が「下の立場」の者を抑え込むためのツールとして大活躍しているように思います。対等な立場であれば、両者に正しさがあるため言い返すことができるのですが、立場の「上下」があると、その高低差の分だけ差が生まれてしまいます。どちらも正しいはずなのに、「立場が上」という優位さを生かして攻撃できる。これは楽しいでしょうね。
しかし、なんとも本能的、即物的、動物的なこの攻撃手法は、自分は本能的で即物的で動物的、誰でもできる簡単な方法で攻撃して気持ちよくなっています、と宣言してしまう手法でもあります。一応人間には、他の動物に比べて発達した脳があるので、この宣言がプラスに働くことはないと思いますが、しかし時折見受けられるというのが現実です。
こんなダサいマウンティングで気持ちよくなるのが、良いことだとは思いませんが、そこは人の考えることなので、なんとも言えません。人様に迷惑をかけていないか、その迷惑はリスクとなって返ってこないか、判断をした上でのマウンティングをよろしくお願いいたします。
マウンティングを気にするな、と言われても難しいものです。できれば、配慮があると嬉しいなと思うばかりです。
Think, think, think.
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