効率の良い仕事をしたいのか、気持ちよくなれる仕事をしたいのか?

 どちらでも良いのですが、自分に嘘はつかない様にすると良いのではないかと思います。


 日常的に、「効率の良い仕事」を求められます。「効率の良い」とはどのような状態を指すのでしょうか。

 私の勤務する会社、部署では、ある業務に対して「これは誰がどれだけやって、どれくらいの価値を生み出したか」を定量的に判定することができていないように思います。むしろ、会社組織においてこういったものを定量的に捉えて評価する、などということができるのでしょうか。何人もの人が業務に関わり、いろいろな方法で手が加えられて成果が出る、というのが会社組織の基本的なやり方だと思いますし、それ自体は悪いシステムではないと思います。

 しかし、個人がどれだけ業務に対して貢献したか、というのは、業務に対して様々な要素が複雑に絡んでいるため、到底定量化できるものではありません。

 さて、一般的に、あるものについて「良い」「悪い」を判断したいとき、どのような方法をとるでしょうか。定量化し、数値化し、その差を見るというのが客観的な方法ではないでしょうか。定量化できないものは、客観的な判断をされない、といえるのではないでしょうか。

 会社組織に所属し、仕事をしている時点で、個人の「効率」に対し客観的な判断をされることはないのではないでしょうか。

 だからといって、各個人が効率を高める努力を惜しんで良いというわけではありません。むしろ、なるべく「分かりやすく」努力することで、会社組織に認めてもらったり、能力を身に着けたりすることは、個人として行うべきでしょう。

 会社組織において言われる「効率の良い」状態とは、多分に主観的な要素を含むということです。

 複数の人が関係し、また複数の物が関係した時点で、変数は多くなり、各変数の及ぼす影響は比較的小さくなってしまいます。また、変数が多いため、最適解を求めるための変数の候補が多い、つまり、どんなやり方にも一理あると言えるでしょう。

 だから、「このやり方が一番効率が良い」という考え方は、変数に他の値を代入した場合、もっと良い答えがあるかもしれないのに、その可能性を自ら消していることに他なりません。

 「効率の良い」を示すためには、客観的指標、平たく言えば数字が必要です。

 しかしながら、どうやら一般に言われる「効率の良い」には、主観的な要素が多分に含まれているように思われます。

 「自分はこうしたいから」、「やってみて気持ち良かった、ストレスなくできた」という思いを、顕在的にせよ潜在的にせよ持ちながら、効率を高めるための方法として提示することが頻繁にあるようです。主観的な要素で効率の良し悪しは判断できないはずですが、しかし主観的な要素を以て効率を高めることを要求する。

 これが顕在している、つまり「私は自分が気持ちよくなれる仕事をしたい」「自分がスッキリできれば良い」と明言しているのであれば、それはそれで立派なスタンスだと思います。そうであれば、こちらも「あなたとは考え方が合いません」と割り切って明言し、対策をとることができます。関わらない、という自衛も可能でしょう。

 しかし、これが潜在的だと、一応は「効率の良さとは何か」を考えているように見えるので、無碍にもできません。どれだけ的外れなことを言っているように感じられたとしても、それが全くの間違いではなく本当に有用なものかもしれないという検討が必要になります。検討には、議論が必要です。議論には、時間が必要です。ほんのささいなことで、いくらでも難癖をつけて、少しでも非を認めれば負けたと感じるような人は、潜在的に「自分が気持ちよくなる」ことを第一に考えているのではないでしょうか。あとは、よく感情的になる人も。

 こうした考えを潜在的に持っている人は、自分を疑うことをしないため、議論ができません。歩み寄りができない。結果して、顕在的な人を相手にするより時間がかかってしまう。

 これは自分が気持ちよくなりたいだけではないか?と問いかけることは、「効率化」を考えるうえで必要なことではないでしょうか。

 私の言いたいことのうち、ほとんどは、「疑う」ことを忘れないようにしましょう、という内容に落ち着く気がします。自分が効率的だと考えるその方法は、具体的なエビデンスがあるのか、ないのであれば可能な限り定量化してみようとする、他人が考える「より良い方法」を批判的に考え、なるべく良い方向に、皆が幸せになるようにもっていく。これができるのがベストで、できなくても良いわけではなくしなければならないのですが、とにかくベストにむかって考え続けること、これが何より必要なことではないでしょうか。

Think, think, think.

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