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記憶と顔

唇の表面を乗り越えて、何かが口腔内に侵入してきた。
それは、ぬめっとしていて、粘液のようだった。
舌と粘膜を通じて、魚の風味を濃くしたような生臭さと出汁っぽい味を脳が認識した。



。o(うぇっ!なんだこれ!気持ち悪い!)


眠りを妨げられ、不快感と共に目を開いた。
ブラインドの隙間から外の街灯の光が薄く射し込んでいるが、視界の暗さから、まだ日が昇らない時刻だと理解できた。


。o(鼻水?あー、寝ゲロの方だろうな、こりゃ。)

。o(人生3度目のそれをやっちまったのか。)

。o(布団洗うのめんどくさいしこれ、起きた後大変だな...。)



とりあえず、口周りを拭きたかった。
手を動かそうとしたその時、自分の身体に異変が起きているのに気が付いた。


。o(あー、金縛りか。)

。o(これも人生3度目だな。)


1度目は中学生の頃で、自慰しまくって眠ったら、悪夢と共に朝方それに襲われた。
2度目は19歳の時だったか。

金縛りの理屈は知っている。
心霊現象でもなんでもない。
このままもう一度眠って起きれば、また動くようになる。

前の2回同様、脊椎の部分を熱く感じる。
口周りの吐瀉物らしき何かが気持ち悪くて二度寝しにくいけれど、しょうがないから我慢するしかないな...。






...ナァァン...


頭の右側から、か細い、猫の鳴き声のようなものが聞こえた。
少し距離があるのか、それとも声が小さいのか。




...ナァァン...


2度目のそれを、右耳の鼓膜が捉えた。
今度はさっきより近く、そして大きく聞こえた。


。o(猫が居る???)

。o(どこから入って来た?玄関はロックしたし、窓も開けてない。)

。o(ボロくて隙間だらけだけど、さすがに猫が入れる穴は無いはずだ。)


そもそも自分は猫を飼っていないし、飼っていた過去も無い。
小児喘息かつ、アレルギー持ちだった事から、どんなに懇願しても親は動物との生活を許さなかった。

独り暮らしで、親は遠方だ。
合い鍵を持たせるような相手は居ない。
玄関を開けられるとしたら、マスターキーを持つ大家さんだけ...大家さんが借主の部屋の玄関を開けて猫を放り込む理由って何だ?


口のすぐ近くの右頬を、小さな濡れたモノで数回撫でられた感触がした。
さっき聞こえた鳴き声の主の舌がそれだ、と、考えるのが妥当だろう。

身体の右側で、空気が動いたような気がした。
右の手先を、毛のようなものの先端がかすめて通り過ぎた。


。o(右手は布団から出ているのか。)


自分の身体の状態は、把握できる部分とそうでない部分が混在する。
相変わらず動かそうとしても動かない...その事実だけは常に認識している...せざるをえない。





タタンッ!


何かが軽快に床を叩き、離れる音がした。
猫が跳んだのだろう...と、思うや否や、腹に4ヶ所、重みを感じた。
重みはじっくり、腹に沈み込んだ。
息苦しい程ではなく、普段使っている筋トレ用のアンクルよりも軽い。



。o(....静かだ...)



腹の上の重みは、沈み込んだまま動きを止めていた。

口周りが気持ち悪く、乗られた感触が残ったままだけれど、身体が動かないなら眠ってしまうのが良いと考え、目を閉じてリラックスを心掛けた。

少し意識が薄らぎ、夢のようなものを見始めたその時、腹の上のそれが、4、3、2、4と、重点を移しながら、胸に達し、顔の方へ近付くのを感じた。

ほどなく、そいつの舌と思われるモノが、ペロペロと口の右端辺りを撫で上げた。
と、同時に、獣特有の臭いとその糞便と思われる臭いが、鼻の粘膜に突き刺さった。
吐き気を催しそうな強い悪臭だったが、身体は何の反応も示さない。


。o(こいつの顔を見てやりたい。)


金縛りの状況下でも、眼球は動かせた。
思いっきり眼を下に向ければ、そいつの頭や顔が見えるかもしれない。

猫とみて間違いないだろうけれど、万に一つぐらいは物の怪の可能性があるのではないか。
そんな存在と遭遇できたなら、人生がもっと楽しくなる。
恐怖なんて感情は、とっくの昔にぶっ飛んでいる。


。o(おまえの顔は...顔は...)










翌日の夕方、たまたま出会った大家さんにこの話をしてみた。
大家さんは、ここ数日は遠方に居て、この日の昼過ぎに帰って来たという。

部屋の玄関のドアはちゃんと施錠されていたし、窓も開いていなかった。
猫が入った痕跡も無ければ、寝ゲロもしていなかった。

全ては、金縛りによる夢と幻覚だったのではないだろうか。






それからしばらく経ったある日、仕事がとても暇でダルかったので、スマートフォンでプロ野球関係のまとめブログを読みまくっていた。
何故か他の事をする気力が湧かず、目に入ったリンクから、普段は読まないある漫画ブログに飛んだ。

「しばらく前に自分の飼い猫が亡くなった事実を報告します」という内容の記事が目に入った。

それから数ヶ月かけて、そのブログの記事を古い方から順に全て読んだ。

「運命」「偶然」「幻覚」、最も相応しい単語を脳内で探した。




#2000字のホラー


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