無意識の判断
sumikaというバンドにグライダースライダーという曲がある。
「
前習え 右見てライン 揃えなきゃ 不安だ
左を見て 揃えやがれと 苛立った
」
という歌詞が印象的だ。
MV https://youtu.be/5GmGeuM6Xv0
私たちはたくさんの慣習に従って生活をしている。
そして、その慣習を当たり前だと認識をしてそれを基準に人を判断しその道から外れているなら怒ったり、「正しい(と思っている)」道に戻そうと試みるであろう。
習慣というものは、我々の真偽・善悪などの判断の根拠になっていることがある。
哲学者パスカルも言及していた。
しかし、その根拠となっている習慣には根拠がない。
恐ろしいのは、根拠のない習慣を根拠としていることに本人が気づいていないのだ。
今、箸を使うとき誰も意識をすることなく持てるだろう。
頭で箸の持ち方を理解して、繰り返すうちにそれが習慣化し、意識せずとも持てる無意識の階層にいってるからではないかと思っている。
人の考えも同じだ。
考え続けるとそれが習慣化し、無意識の階層にいく。
そして無意識の階層にいったものに対しては疑わなくなり、無意識に浸透しているその考えが、我々の意識に上る考えを根底で支配しているのではなかろうか。
前野教授の受動意識仮説という仮説をご存知だろうか。
詳しくは本を読んでいただきたいのだが、一部引用したいと思う。
『「意識」は、すべてを決定する主体的な存在ではなく、脳の中で無意識に行なわれた自律分散演算の結果を、川の下流で見ているかのように、受動的に受け入れ、自分がやったことと解釈し、エピソード記憶をするためのささやかで無知な存在(p232)』
(ちくま文庫 『脳はなぜ「心」を作ったのか-「私」の謎を解く受動意識仮説』著者 前野隆司)
つまり、人間は無意識→意識の流れで日々生活をしているのだ。
じゃあもう無意識に縛られ続けてしまうのかというと、そうでもないと思っている。
意識→無意識にアクセスすればいいのだ。
(私はこの行為を能動的意識と言えないかなと思っている)
つまり、日々生活している中で当たり前と思っていることや日々行なっていること、日々感じていることに対して気づき、その当たり前などに根拠があるかないか疑ってみるのだ。
根拠があれば良いが、根拠のない習慣だった場合注意が必要だと思う。
なぜ自分はnoteを開いたのか、なぜ自分はこの会社を選んだのか、なぜ自分はこういうツイートをしたのかなどなど……
この行為は自分を知ることであり、自己客観視などの類だ。
就活生や社会人になると自分とは何かを考えると思う。
親や先生や友だちの誰かの考えを無根拠にインプットしそれが土台になっていないだろうか。
習慣の奴隷になっていないだろうか。
私も、無根拠の習慣に左右し人を判断してしまわぬように注意していきたい。
参考文献
ちくま文庫 『脳はなぜ「心」を作ったのか-「私」の謎を解く受動意識仮説』著者 前野隆司
https://www.amazon.co.jp/dp/4480427767/ref=cm_sw_r_cp_awdb_hr23zbC0RM4Q7
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