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舞台制作者と芸術と傷と

noteを週に一回更新するのだと、10月の頭に高らかに宣言してみたはいいものの、既に二週間ほど経過してしまった。
鈴木の意思は弱いし、そもそも人間は弱い。

この数年間、制作として、アートを通した連帯、社会の繋がりのようなものをどうやったら作ることができるのかを探ってきたのだけれど、連帯の道を進んでいくと、結局、みんなでカレーを食べるというところに落ち着かざるをえないのではないかと思ってしまう。
連帯とは逆のベクトル、社会の中で隠蔽された傷を可視化し、社会の固定された構造にカオスを積極的に招き入れて、風通しをよくすることしか、本当の意味での芸術は生まれないのではないだろうか。

観客はリスクを避けるために、一度観て面白かった劇団の芝居を選びがちだ。その劇団の劇作家が Twitter やインスタをやっていれば、フォローするだろう。劇団側は観客動員数を増やしていきたいので、「ファン」や「推し」を囲い込み、サークル化していく。そのサークルの存在は、芝居や劇団にとっては重要だろうが、文学者としては邪魔でしかない。劇作家は、そのサークルの中に入ってはいけない。お仲間になってはいけない。徒党を組んではいけない。徒党を組む人というのは、限りなく貧相だ。貧相な文学者は、貧相な作品しか書けない、とわたしは思う。
https://genron-alpha.com/gb065_02/ 「第65回岸田國士戯曲賞に寄せて|柳美里」より引用)

新自由主義が、明示的/非明示的であれ、自己責任論として社会全体の倫理に変容していくとき、芸術の制作者は、アートを通じて連帯を作ることで、ささやかな抵抗を試みることが、できるかもしれない。趣味縁的な繋がりを意図的に作って、劇団の存続を試みると同時に、社会的意義に訴えかけることができるかもしれない。このこと自体、確かに、社会に対する対症療法として意義があるだろう。

他方で、私は、アートを出汁に鍋を囲むことが、社会を変えていく切実な活動でありうるのかどうか、今、分からないでいる。柳美里が言うように、徒党を組まないとやっていけないような芸術家を、私は芸術家と認めたくない。批判的評価を恐れて歩みを緩めたり、称揚的評価に浮かれ口笛を吹くならば、それはビジネスと交換可能な何かであり、もはや芸術である必要はない。

「敵対性の美学」「前衛のゾンビたち」で再三指摘されていることかもしれないが、私は、アートの本質は、連帯と同じくらい、その敵対性にあると思う。
自己批評性なき集団が全体主義化するのと同様に、敵対性なき芸術は、カオスを生み出す力を失い、既存の概念・思想に無自覚に追従することにつながるだろう。私は、消極的な自由と積極的な自由を区別したい。批判性なき民主主義は、消極的な自由への道であって、むしろ自由から逃走している。

あらゆる敵対性は、他者と自己をこれ以上ないくらい接近させた、その臨界点で生じる。自己の履歴が生理的に拒絶し、取り込むことのできなかった他者の残滓が、敵対性であり、芸術の根源である。社会が巧みに隠蔽している敵対性を、芸術は、その刃を以て剥き出しにする。芸術は、社会の傷を抉り出す。もし、芸術があらゆる敵対性を排除するならば、内的にも外的にも他者を失い、同時に参照点をも失い、既存のアートワールドに「なんとなく」追従するだけの存在となる。カオスを失った芸術は、やがて「鉄の檻」を揺らすことを忘れるだろう。


大島渚賞に黒沢清が寄せたコメントを、最近よく思い出す。

「いろいろあったけど、よかったよかった」となる映画が多すぎる。
本当にいろいろあったなら、人は取り返しのつかない深手を負い、社会は急いでそれをあってはならないものとして葬り去ろうとするだろう。
人と社会との間に一瞬走った亀裂を、絶対に後戻りさせてはならない。あなたがささやかに打ち込んだクサビは、案外強力なのだ。
よかったよかったと辻褄を合わせる必要なんかどこにもない。
「たかが映画だろう」と周りは言うかもしれない。
しかし映画とは何だ? ぼんやりとみなが想像するものだけが映画ではない。
表現の極北から見出される鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させよう。これら二つが美しく共存するというのはまったくの欺瞞だ。
このような映画製作に挑む若者を探している。
それは大島渚が切り開いた道であり、決して閉ざしてはならないと思うから。
https://natalie.mu/eiga/news/417753 「黒沢清 コメント」より)

舞台制作者は、芸術と商業の境界線でしか活動できない。自身が境界線上にいることを忘れた瞬間、彼が制作者として芸術に関わる意義は失われてしまうだろう。
芸術が「鋭い刃物のようなクサビで、人と社会とを永遠に分断させる」一方で、制作者は、集団の存続のために、人と作品、人と社会とを連帯させようとする。そのような意味で、やはり、舞台制作者は、彼が誠実な制作者である限り、イスカリオテのユダたらざるを得ない。


そうであるならば、と書こうとして、手を止める。

そうであるならば、どうすればいいんだろう。
皆目見当もつかない。





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