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宮沢賢治の「やまなし」は水底の情景描写が味わい深い

「やまなし」の中の名文

みずみずしい、美しい光景が思い浮かぶような珠玉の一文。そんな名文との出会いは心を豊かにしてくれます。

今回ご紹介するのは、宮沢賢治の童話「やまなし」。小学校6年生の教科書にも載っていた有名なお話です。「クラムボンはかぷかぷわらったよ」というところを覚えている方も多いのではないでしょうか。

「やまなし」の中で特に美しいと思った文章がこちら。

「白い柔かな円石(まるいし)もころがって来、小さな錐(きり)の形の水晶の粒や金雲母(きんうんも)のかけらもながれて来てとまりました。」

「やまなしは横になって木の枝にひっかかってとまり、その上には月光の虹がもかもか集まりました。」

他にも「光の黄金の網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。」など、彩りを与えるパーツ一つ一つに言及しながら、水の下の世界が幻想的に描き出されています。

切り絵「水底の園」

この文章をモチーフに絵を描いてみました。それがこちらの作品、「水底の園」になります。

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こだわったポイントは、「形の多様性」「黒の残し方」「マチエール(絵肌の調子)」「波模様などの曲線美の意識」です。

この絵は透明でノリのついた面に黒い紙が引いてある特殊なボードを切り絵のように切って、はがしたところに色のついた箔をつけるというやり方で作っています。箔を一度くしゃくしゃにしてからつけることで、マチエール(絵肌の調子)に変化をつけています。カニの兄弟の体のザラッとした感じを出したり、月光の虹には細かく白を入れたりしています。

箔の色数は12色で決まっているので、配色にも気を配りました。遠近感も青の濃さや海藻の大小で表そうとしました。
カニの口から月へ向かって漂う泡の中には、クラムボン(プランクトンと解釈しました)などを写り込ませています。

カニの兄弟は重要な登場人物なので、図鑑の写真を資料に正確な描写になるよう気をつけました。

宮沢賢治の生い立ち

作者の宮沢賢治は有名ですが、生い立ちをおさらいしましょう。

1896年(明治29年)に現花巻市豊沢町で長男として生まれた宮沢賢治。19歳の時、盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)農学科第二部に首席で入学します。文学部ではなかったのは驚きですね。童話の制作を始めたのは、22歳のときでした。その1年後には萩原朔太郎の詩集「月に吠える」を読み、感銘を受けています。

校正などの仕事を経て、25歳の時農学校の教諭に就任。「注文の多い料理店」など多くの童話も創作します。26歳の年には「春と修羅」制作開始。こちらの作品は映画「シン・ゴジラ」にも登場していますよ。同年11月、悲しいことに、まだ若い妹トシが死去。その死を受けて、「永訣の朝」を書きました。童話「やまなし」も妹が死んだあと、27歳の時に作られました。この事実を知ると、クラムボンの死のストレートな描写も近親者の死を経験したからこそ出てきた表現だったのかもしれません。(あくまで私の憶測です。)28歳の時、「銀河鉄道の夜」初稿が成立。

29歳の時には草野心平と交友関係があったそうです。草野心平は、「冬眠」という黒丸一文字の斬新な詩が代表作の詩人です。35歳で「風の又三郎」の執筆を進め、手帳に有名な「雨ニモマケズ」を書き留めます。37歳の若さで、5年前から患っていた急性肺炎のためこの世を去りました。


※生い立ちは、宮沢賢治記念館 - 花巻市HPを参考に書きました

https://www.city.hanamaki.iwate.jp/miyazawakenji/about_kenji/index.html

おわりに

いかがでしたか?宮沢賢治は妹の死、若いうちの病気など、苦難がありながらも文学に向き合い、精いっぱい生きた人でしたね。

それでは、今回もみなさんの心の琴線に触れる一文との出会いがありますように。


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