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生きづらさの元である「センサーの不具合」を調整すること

「安全と脅威を見分けるセンサー」について、もう少しお話します。


生きづらさの元になっている「安全と脅威を見分けるセンサー」は、私の誰もが生まれつき持っているものですが

とはいえ、生まれた直後のセンサーはまだまだ未完成です。健全なセンサーとして調整されていません。



センサーそのものは、ママのお腹の中にいるときから、順番に少しずつ発達しています。

驚くべきことに、妊娠7週の胎児にも原始的なセンサーが備わっている様子が観察されているんですね。

(原始的ではあるとしても)胎児にもセンサーがあるということはつまり、赤ちゃんはママの子宮の中で「何かを経験している」ということです。

まだ言葉を理解しないのはもちろんのこと、目も開いていないうちから、私たちは音や味、匂いに反応したり、痛みを感じたり、びっくりして固まったりするというわけです(ということは胎児もトラウマ経験をする可能性があることになります)。



胎児のときから少しずつ発達したセンサーは、生まれたときにはもう少し複雑になっていますが、まだまだ未完成なものです。

未完成なセンサーとは、たとえば「照明器具に付いている人感センサー」のようなものです。人が通るとON、誰もいなければOFF状態。動くものを検知してON、何も動くものがなければOFF状態。シンプルなしくみです。

生まれて直後の赤ちゃんのセンサーは、このくらいシンプルです。

おなかがすいたらON。
オムツが濡れたらON。
暑いとON。寒くてもON。

とにかく不快ならON、そうでなければOFFの状態です。



このシンプルなセンサーの感度を、より精度の高いものに調整していくのは「経験」です。

空腹を検知するやいなや赤ちゃん本人に知らせ、大音量の泣き声サイレンを響かせていたセンサーは、「ちゃんとミルクを飲ませてもらう」という経験によって、ちょうどよく調整されていきます。

「ちょっとだけお腹がすいた感じがするけど、知らせればちゃんとミルクがもらえるだろう」とからだが学習していれば、それほどの大音量で泣かなくなるかもしれません。

大きな声で泣くのは変わらないとしても、「すぐに誰かがきてくれてニーズを満たしてくれるんだ」ということを経験で知っていれば、誰かが来てくれた時点で泣くのをやめることができるようになります。

少しずつ自由に動けるようになり、手や口が使えるようになれば、大きな声で泣かなくたって「ママのおっぱいに近づいて飲みたそうな仕草をする」というやり方ができるようになるかもしれません。そういうとき、センサーは空腹を検知はするけれども、「そろそろだよー」という程度のアラートで済むわけです。

センサーはつまり「安全か脅威かを見分けるため」のものなので、お腹が空いたとしても安全に変わりない、空腹は別に脅威ではないんだとわかっていれば、適切に調整されているセンサーだということになるわけです。


センサーの調整は、完成したら終わりというわけではありません。

胎児の頃からはじまって、私たちが死ぬまで続けられます。

なぜなら私たちは、死ぬ瞬間まで「経験」というものをし続けるからです。

たとえ寝たきりになっても、意識がなくとも、感覚が麻痺したとしても、息を吸って吐くということをしているだけでそれは呼吸というひとつの「経験」です。

経験がセンサーの感度を調整する。

だとすれば、
経験というものが続く限り、私たちのセンサーは調整され続けるのです。


だから、センサーには人生が反映されます。

その人の来し方のすべてが、経験という形でセンサーに学習され、調整されていくわけです。

「何が安全とし、何をもって脅威とするか」は、経験によって形づくられ、その人の人生哲学や信念をあらわしているものです。

つまり、センサーがどんな状態であるかをみれば、その人がどんな人生を生きてきたか、どんな経験によってどんな調整がされてきたか、ある程度、推測することもできるんですね。



たとえば、
戦場で激烈な経験をした兵士の多くが、帰還後にPTSDの症状に悩まされることはよく知られています。

彼らの訴えは「毎日戦争のことを思い出して辛いんだ」というようなものではありません。

「別に戦争のことは何でもない、終わったことだ」と口ではそう言う。だけれども、夜中に銃撃の音がして冷や汗とともに目が覚める。それは帰宅した隣人が閉めた車のドアの音であったり、通り雨がトタンを打ちつけている音だったりもする。聞き違いだとわかっても安心できず、心臓がバクバクして怖くて眠れなくなる。酒や薬の力を借りてやっと眠る。翌日はもう夜になることが怖くなる。暗闇が怖いし、また音を聞いてしまうことも怖いし、何よりそれに反応してしまうことも苦しい。だから夕方早い時間から飲み始める……

つまり、「戦場での激烈な体験によってセンサーが狂ってしまい、銃撃に似た音がすると過敏に反応してしまう」という状態です。

戦場では、頭を見えるように出してキョロキョロするようなことはできません。そして大抵、襲撃は闇討ちです。だから耳がいちばん敏感になる。音を聞き分けて、ただちに起きて戦闘態勢を取らなければならない。もしくは逃げなければならない。

そうして耳のセンサーがどんどん過敏になり、任務を終えて家族と暮らす我が家のベッドでも、少しの音に過剰反応するようになってしまいました。

戦場で襲撃を受けるという、生きるか死ぬかの「経験」が、兵士のセンサーを狂わせてしまったのです。



生きづらさは「センサーの不具合」によるものです。

「安全と脅威を見分けるセンサー」の感度が、何らかの経験によって、極端に過敏になったり、あるいは鈍くなったりしてしまったせいで生きづらいのです。

ただし、どうしてもこれだけは言わせてください。

センサーの不具合は、その人の不具合ではありません。

センサーがちょっと壊れているからといって、オーブンそのもの、エアコンそのものが全部壊れているのではないように

センサーの不具合が、その人の人間性や価値を決めるものではありません。

センサーは、私というひとりの人間を構成する大切な部品のひとつではあるけれども、私そのものではありません。

センサーは、私の経験を反映したものではあるけれども、私の人生のすべてではありません。

兵士が狂っているのではなく、センサーが狂っているだけです。


そして何よりも大切なことは
この「安全と脅威を見分けるセンサー」は、経験によって調整ができるということです。

お腹がすいてギャーと泣くばかりだった赤ちゃんのセンサーが少しずつ調整されていくように、不具合のあるセンサーも少しずつ調整していくことができます。

センサーは、私たちが肉体の死を迎えるその瞬間まで、調整され続けるもの。最期の瞬間まで、私たちを安全へと導いてくれるバディでもあります。

トラウマをケアして自律神経にワークすることは、この大切なセンサーのメンテナンスをするということです。