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抽象絵画の楽しみかた。【ゲルハルト・リヒター展レポート】前編

はじめに

9月15日(木)AM11:00。
ぼくは事前予約してあった電子チケットをスマートフォンの画面に映し、それを受付で示していた。
ここは竹橋。東京国立近代美術館の「ゲルハルト・リヒター展」(以下、リヒター展)の入り口である。

正直、前日まで行くか迷っていた。
あまり体調が優れないためか、眠れない日が続いていたということもある。
だが、もっと根本的なことなのだが、ぼくは現代アートや抽象絵画が苦手なのである。

好きになりたいという気持ちはある。
実際、草間彌生の作品を生で見たときは魂が震えたので、全然ダメというわけでもなかったりする。
ただ、それはあくまで例外中の例外で、ほとんどの現代アートや抽象絵画はまったく面白いと思えないのだ。

とはいえ、ゲルハルト・リヒターといえば現代最高のアーティストの一人だというのは知っていたし、また今回のリヒター展自体も話題になっていた。
政治性の強い作品もありそうなので、ぼくのようなにわかにも理解できるかもしれない。

そのような一縷の期待を抱いて、ぼくは有給休暇を取得し、東京国立近代美術館までやってきたのであった。

東京国立近代美術館に行くには、竹橋駅を降りてすぐに竹橋を渡る。宮城のお堀の水は藻が繁殖しており一面がみどり色。
東京国立近代美術館。隣は警視庁第一機動隊らしい。

ゲルハルト・リヒター展

ゲルハルト・リヒターは、1932年生まれの御齢90歳。東ドイツのドレスデン出身の芸術家である。
今回のリヒター展は、彼の60年以上に渡る芸術活動を通貫した展示構成になっており、作品のジャンルも多岐にわたっている。
そのため、リヒター展全体についての感想は書きづらい。むしろ作品のジャンルごとにまとめて書いてみようと思う。

リヒター展入り口。
しぶい。チャラチャラした副題をつけないのがかっこいい。

アブストラクト・ペインティング

写真を撮ったはいいけど、作品名わかりません…。
上に同じ。

入り口から入ってすぐにアブストラクト・ペインティングがたくさん並んでいる。
いきなりぼくの苦手な抽象絵画である。

作品をじっと見ていると、どうやら本来はもっと具象的なものが描かれていたようだ。
おそらくその上からハケみたいなもので縦横に絵の具を引き摺るように伸ばしたり、削ったりしているようだ。

確かに何か面白いようにも感じる。
キャンバスに塗られた絵の具は、あるところはもっこりと立体的になっているし、あるところは削られて抉られている。
豪快に縦横に絵の具が引き摺られている画面は、なかなかの迫力だ。

だが、それも正直2作品くらい見たら飽きてしまった。
どれも同じに見えてしまう。
ただ単にリヒターの作品だから有難がっているだけではないのか、とぐるぐる葛藤をし始めてしまった。

やっぱりぼくには抽象絵画はわからないなぁと肩を落としながら、この展示室の
中心に鎮座している「8枚のガラス」という作品を眺めた。

「8枚のガラス」 2012年
8枚のガラスが縦に並んでいる。写真を撮るのがむつかしい。

ガラスは1枚1枚まっすぐ立てられているわけではない。
それぞれ法則性もなく、右に左にナナメに立ててあったりするのだ。
そうするとガラスに反射して映り込む景色が、見る場所によって全然異なる。

アブストラクト・ペインティングの展示室の中心に、この「8枚のガラス」が鎮座しているのは偶然ではあるまい。
ガラスは、ガラスを見ているぼく(とその周囲)を映し込む。
そして、それは複数の不揃いなガラスによって、見ている場所で映り込むものが異なるのだ。

リヒターは、この「8枚のガラス」と、アブストラクト・ペインティングを同じものとして考えているのではあるまいか。
アブストラクト・ペインティングを見ているぼくを「見ている」ということ。
だが「8枚のガラス」と異なるのは、アブストラクト・ペインティングに映り込んでいるのは自分の姿ではなく、自分の内面なのだ。

抽象的な図像は、抽象的なもの=内面を映し出すための「ガラス」として機能している。
8枚のガラスを不揃いに並べた「8枚のガラス」は、見る場所によって映り込む景色が異なるようにできていた。
アブストラクト・ペインティングは、色彩や縦横に引き摺ったり削ったりした絵の具が微妙に異なることによって、鑑賞しているぼくの内面の異なる側面を映し出そうとしているのだ。

グレイ・ペインティングとカラーチャート

ちなみに本展覧会に順路はない。
展示会場のマップが配布されており、好きなところを好きな順番で見て欲しいという配慮らしい。
というわけで、次に見たのはグレイ・ペインティングカラーチャートの展示である。

「グレイ」1976年
グレイで塗り尽くされた画面。
「4900の色彩」2007年
この他に似た作品があと3つある。

対照的な二組の作品だが、どちらも「色」がテーマになっていることは共通している。
まずグレイ・ペインティングだが、画面全体がグレイ一色で塗り尽くされいるのには理由がある。
なぜならば、リヒターにとってグレイとは「民主主義の象徴」なのだ。

よく知られているように、すべての絵の具を混ぜ合わせるとグレイになる。
それはつまり、たくさんの意見を尊重し取り入れる民主主義のメタファーになっているのだ。
おそらく、この背景にはリヒターが東ドイツ出身であることが影響しているのであろう。

リヒターは、東ドイツでは自由なアート制作が許されていないことから、西ドイツに亡命している。
一党独裁の共産主義の国から、自由を謳う民主主義の国へ。
この灰色の画面には、リヒターの特別な想いが仮託されているのだろう。

他方、「4900の色彩」はまさにカラーチャートそのものである。
25色の正方形のパネルがランダムに並んでいるのだが、その並べ方は展示会によって異なるらしい。
これもある意味、グレイ・ペインティングと同じ制作思想を感じる。

ただ、少し異なる点があるとすれば、それはなにかめまいを感じるような錯覚を起こす力があるということだろう。
図像的なものが浮かび上がってきそうで、上がってこない。
奥行きがありそうで、まったくない。
不思議な印象を与える作品である。

ビルケナウ

さて、次に向かった展示は、本展示会最大の目玉「ビルケナウ」である。

「ビルケナウ」2014年
ビルケナウ展示室の左壁に4組16枚の作品が展示されている。
「ビルケナウ(写真ヴァージョン)」2015年〜2019年
展示室の右壁には「ビルケナウ」の写真に撮り、プリントしたものが展示される。
「ビルケナウ」展示室正面には、グレイの大きなガラスが貼り付けられている。

ビルケナウとは、ポーランド南部の村ブジェジンカのドイツ語名である。
そして隣町はアウシュヴィッツ。
ナチス・ドイツによりアウシュヴィッツ第二強制収容所が作られた場所である。

そして、ビルケナウの収容所には1944年夏に収容されているユダヤ人によって、隠し撮りされた収容所内の写真が4枚残っている。
本展示会はほとんどが写真撮影可であったが、その収容所内で奇跡的に隠し撮りされた写真に対しての撮影は厳禁であった。
そのため本記事には掲載できないが、もし興味があるならばネットで検索してみるのもいいだろう。

そして、本作品「ビルケナウ」は、その隠し撮りされた4枚の写真からインスピレーションを得て描かれた大作である。
作品のジャンルとしては、すでに紹介したアブストラクト・ペインティングなのだが、写真でもお見せした通り、作品の対面には作品の複製(写真ヴァージョン)が展示され、その両方の作品を映し出すようにグレイの横長のガラスが配置されている。

この作品をどう解釈するべきか。
賢しらにそれに応えるのであれば、こうなるであろう。

隠し撮りされた収容所の写真4枚のうち2枚は、おそらくガス室で殺された大量の死体を焼却しているところを写していると思われる。(遠景であるのと画素が荒く鮮明ではない。)
そして残り2枚は木の枝か何かに遮られており、黒い影が画面の大半を占めている。隠し撮りをしている緊張感は伝わってくるが、どのようなシーンなのかはよくわからない。
ただ、その内の1枚は奥の方で歩いている複数のナチスの軍人と、これもまた分かりにくいが、複数の人影が見える。この人影は、もしかしたら死体かもしれない。

この画素の荒さ、わかりにくさにも関わらず、醸し出してしまう生々しさ。
具象を超えたおぞましさを表現するために、「ビルケナウ」はアブストラクト・ペインティングで描かれているのだ。

では、「ビルケナウ」を写真に撮りプリントして対置させている意味はなんだろう。
この「ビルケナウ(写真ヴァージョン)」は、ナチスの蛮行を写した写真から、さらにそれを写した作品を、またさらに写す、という複雑な構造を生み出している。

ナチスの蛮行のコピーとしての写真のコピーとしての作品のコピー。
この入れ子構造は、鑑賞者の立ち位置を揺るがすための仕掛けだろう。
隠し撮りされた写真は、当然ながら隠し撮りしたユダヤ人の眼差しを表している。
しかし、その写真もまたユダヤ人を見ている。

これから悲劇に見舞われてしまうユダヤ人の眼差しと、ナチスの蛮行を捉えた写真からの眼差し。それを撹乱させることが、この写真ヴァージョンの狙いなのであろう。

そして、正面に配置されたグレイのガラスは、「ビルケナウ」とその写真ヴァージョン、そしてさらにその鑑賞者さえも写し込む。
グレイの意味と、ガラスの意味はともにすでに説明済みだが、簡単にまとめるとこういうことだ。

グレイは民主主義や自由を象徴し、ガラスは鑑賞者自身を作品内に参加させる。
画面正面のグレイのガラスに鑑賞者が映り込むことではじめて、この「ビルケナウ」は完成すると言っても過言ではないのだ。

おわりに

今回はリヒター展で非常に興味深かった「ビルケナウ」について、ある程度書くことができたので納得している。
その結果、集中力も切れたので、ここまでを前編とし残りは後編にまわすことにした。

ひとつ書いておかねばならないことがある。
ここまで書いてきた作品解釈に関しては、相当程度間違っている可能性は否定できない。
ぼくはリヒター作品に詳しいわけでもなんでもないし、本展示会の図録もそこまで読み込んだわけでもない。
ただ、最低限の前知識と、実際に展示を見た際に感じたインスピレーションを頼りに作品を解釈してみたに過ぎないのだ。

とはいっても、本来アートを鑑賞するということはこういうことなのではないか、とも思っている。
まるで重箱の隅をつつくような詳細な学術的知識を持っていないと、アート作品について語れないなんてことはないはずである。

ぼくは、ぼくの持つ知識と感受性を総動員して、アート作品を鑑賞する。
そして、それを記事に書き、誰かが面白いと思ってもらえたら最高なのだ。

ぼくの記事に有益な「情報」は一切ない。
だが、「情動」だけはある。
ぼくの感動が誰かに伝播することのみが、ぼくの求めるところなのである。




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