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抽象絵画の楽しみかた。【ゲルハルト・リヒター展レポート】後編

前編はこちら。

はじめに

前編を書いてから後編を書くまでに、だいぶ時間が空いてしまった。
言い訳はいろいろとできるのだが、一番の原因はひとつで、前編をほとんど誰も読んでくれていないからである。

ぼく個人的には、結構力を入れて書いたつもりである。
確かに内容のクオリティは低いのかもしれない。
しかし、ぼくの他の記事に比べて劣っているとも思えない。
そう、つまりぼくの他の記事よりも読んでもらえていないのである。

ここ数日、ぼくのベッドの枕元は、後編を書く準備をしたまま放置されていた。
リヒター展の図録は中途半端に開いたまま。
もらってきたチラシや音声ガイドリストはくしゃくしゃになったまま散らばっている。

つらい。
誰も読まない記事の後編を書かないといけないと思うだけでなく、部屋が散らかったまま片付けられないのも、つらい。
というわけで、とにかくすべてを片付けたい一心で、どろどろ溶け出しそうなだらけた脳を気合いで奮い立たせて、本記事を書いていきたい。

そもそも、ぼくは自分のnoteを「投瓶(メッセージボトル)」のつもりで書いていたのであった。
メッセージを書いた手紙を空瓶に込めて、ネットの大海に放り込む。
誰が受け取るのかわからない、もしくは受け取られず沈んでしまう可能性も高い。
でも、書かないといられない衝動。
それがぼくのnoteだったのだ。

ゲルハルト・リヒター展(つづき)

さて、今回も鑑賞したときにビビっときた作品をアップしていきたい。
ぼくの感受性のみのピックアップなので、偏りが出ることはお許しいただきたいが、もしぼくのピックアップから読者諸氏の興味関心を惹起できれば望外の喜びである。

頭蓋骨、花、風景

「頭蓋骨」1983年
メメント・モリというテーマは古典的だが、特徴的なのはグレイのガラスの上に描かれていることだ。
グレイとガラスに関しては前編で紹介したが、この写真に映り込む筆者が、リヒターの意図を表している。

肖像画

「エラ」2007年
俯く少女を描いた本作は、写実的なような感じもするし、そうではなく抽象画のような感じもする。
このもやもやした印象が、少女の思春期の変化や葛藤を表象しているように見える。
「トルソ」1997年
本作も「エラ」と同じような描法で、おそらくテーマも同じだろう。だが、「エラ」よりもかなり露骨である。

リヒターの描く「肖像画」シリーズだが、いかがだろうか。
とても生々しく、しかしどこか空想的な不思議な印象を持つ作品群であったが、そのふわふわした感じこそ、リヒターの意図するところだろう。

ストリップ

「ストリップ」2013〜2016年
アブストラクト・ペインティングの一作をスキャンし、にょいーんと引き伸ばした作品。
「ストリップ」を正面から撮影。
奥行きがあるようなないような、段々くらくらしてくる変な鑑賞体験である。

フォト・エディション

「8人の女性見習看護師(写真ヴァージョン)」1966/1971年
ある事件で亡くなった8人の看護学生の写真を元に描かれた。
元になった写真は新聞記事に掲載されたものらしく、その画素の荒さがどこか不穏で悲劇的
な印象を与えている。
「ルディ叔父さん」2000年
ナチス・ドイツの軍服に身を包んだ彼は、リヒターの戦死した叔父。
家族写真を元に絵画が作成され、さらにその絵画を焦点をボカして撮影した写真作品。
このボカシが、何か現世とは別の世界を表しているようにも見える。

オイル・オン・フォト

作品名は日付になっているので割愛する。
写真の上にこってりと立体的に油絵の具が塗りつけられている。
これを見てどういう印象を持つだろうか。
リヒターは写真(現実)をどう加工するかを、作品製作の一つの軸としていたように見える。

おまけ(東京国立近代美術館常設展に行ってきた。)

以上がゲルハルト・リヒター展のレポートである。
ここからは、ついでに見てきた東京国立近代美術館の常設展について書いてみる。

といっても、なにか一家言あるわけではない。
ざざっと見ているなかで、ぼくのなかでビビっときたものを以下にピックアップするだけである。

国吉康雄「誰かが私のポスターを破った」1943年
この作品を見た瞬間、目が離せなくなった。戦時下とはいえ、昭和のハイカラな女性。
きっと話しかけたらドスの効いたヤクザな声を聞けるのだろう。
ちょっとJOJOっぽい。というかJOJOが国吉っぽいのだろう。
橋本平八「幼児表情」1931年
正面からの写真もあるが、あえて横顔から。
この頰のふくらみから下唇がむにっと不満そうに出ているのがとにかく素晴らしい。
お腹がぽっこりなっているのも腕の感じも、とにかく男児の特徴をよく捉えている。
靉光「自画像」1944年
これから出征するというときに描かれた自画像。
遠くを見つめる眼差しは、彼の悲哀を表している…とか簡単に理解したくなるけど、どうであろうか。
個人的にはそんな簡単で記号的な表情に回収したくない魅力が本作にはある。
藤田嗣治「薫空挺隊敵陣に強行着陸奮戦す」1945年
藤田嗣治の戦争画は多数展示されており、ただただ純粋に興奮した。
もちろん戦争画はプロパガンダとして批判されているのはわかるが、しかしその定型的な批判が鬼気迫る狂気を本作から隠し通せるはずもない。
上記作品中央の日本兵。
モデルとなった台湾の山岳民族「高砂族」の志願兵で構成された薫空挺隊は玉砕しており、実際にどのような戦いがあったかは不明。
日本人として戦争に行った(行ってくれた)台湾原住民に対して、当時の日本人は最大限感謝を捧げようとした作品なのかもしれない。
会田誠「美しい旗(戦争画RETURNS)」1995年
題にもある通り藤田嗣治的な戦争画のパロディとして描かれているわけだが、段々とパロディではなくなってしまっている悲しい現実がある。
製作当時の1995年の日韓関係と、2022年現在の日韓関係では、本作の意味も変わってしまう。

おわりに

以上で東京国立近代美術館で開かれていたゲルハルト・リヒター展と、おまけで常設展で好きだった作品のレポートとさせていただく。
今回は写真を中心に記事を作成してみたのだが、いかがだったであろうか。

本来ならば、もっとぐちぐちと作品評を書き連ねてみたい欲求が、ぼくにはある。
だが、それをやるにはもっと力をつけてからでなければいけないのであろうことを、今回はひしひしと感じてしまった。

ぼくは右脳人間か左脳人間か、絵画的人間か散文的人間かというと、あきらかに左脳人間であり散文的人間であると自認している。
ぼくの受けた感動や思考を、なんとか文字にしてお届けしたい。
今回はちょっと力が及ばなかったかもしれないが、もっともっと努力して、面白いものをかけるよう精進することにする。

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