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怖いという感情:過去の自分との対話

おそらくコロナ前だろう。
noteの下書きに、こんなテキストがあった。

仕事上、沢山の人と接する機会が増えた。
どんな人たちでも平易に、というのを実践するようにしていたが、ふとした瞬間、そうではない人たちもいるのだと知った。
ああ、こんな風に終わってしまうこともあるのだろうな、とおもってしまう。私はこんな人の下で働いていたのか、とも思う。

そんなことがなければ、今この場にはいなかった。
でも、まだ立ち向かうことができないし、怖い。それだけのことはある。

思いを形にしていくうちに、自分の言葉が通らないことに対して、涙が出るタチで。
どうしようもない自分を、相手を、それでも認めることができるだろうか。私は、認めたいのだろうか。

きっと、認めたくないから、まだこの場にいる。

ちょうど、自分の身の振り方を考えていた時期で、たぶん、今の職場に三下り半で辞めるかどうかを悩んでいたときだったと思う。(なんやかんやで仕事は続いている)

いろんなところで面接やテキストベースの試験を受けて、落ちたり歯牙にもかけられなかったり。自分の軸を仕事に合わせている、だれにもなれない自分がいやで。
面と向かって他者に属性として非難されるのが怖くて。

つらつらと書いているうちに、気付いた。
そういうことにびびっている自分も、いやだったんだろうと思う。認めたくなかったんだと思う。

気付いたのに、私は、大きく言えば何も動かなかった。
動けなかった。どうにもならなかったので、どうにもしなかった。
もがけばもがくほど、どん詰まりで、時間だけが過ぎていくように思えた。まあ、生きていくのに、しんどくなるのは環境が大きい。大きいうねりの中で動けないことを知って、流されるまま流された先にいるのが、今の自分なのだろうと多少は俯瞰して見られるようになった。

結果、この数年で一番穏やかに、終わりを見据えている。どうせ終わるのだろうと諦めている。
先のことなんて考えていないのに、である。
もしかしたら、先のことを考えていないからかもしれない。
そこが私にとっての、深淵。

職場に関して言えばいまはまだ過渡期も過ぎて、いつやめるか、だけである。わりと今は、さくっと仕事がなくなる前提で過ごしている。そう思っている方が、とても楽だからである。
この先どうなるかもわからないのに、ふわふわ、漂っている。

悶々とするくらいなら、潔く辞めてしまえばいいだけなのだけれど、幸いにも重宝されているらしい、ということにまだしがみついている。もがかない代わりに、私はこの先生きていけるのか。

それをまだまだ、考え続けている。

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