3.11の記憶

こんばんわ。今日は天気が良くて洗濯を2回しました。寒い時期は洗濯物が乾きにくいので気温が高い日は幸せです。


一回目の投稿は大体自己紹介ですが、二回目の投稿は何を書けばいいのか悩みます…。最初に書きたいことを書くと決めたので時系列無視で思いついたことを書きますね!

3月11日

3日前になりますが、東日本大震災から10年が経ちましたね。私は10年前のこの日、2分の1成人式をしていました。10歳の私たちは教室で保護者の前で自分の将来を語り、明日への希望と10年後のキラキラした未来に胸を膨らませながら、家に帰りました。

しかし、14時46分の地震発生からその明るい気持ちは一転。初めて見る津波と地震発生時の映像。まだ10歳だった私は私の住む広島県まで津波が来て死んでしまうのではないかという恐怖で泣きながらお母さんにしがみついていた記憶があります。

未来を熱く語った1時間後に死の恐怖に直面するなんて人生ほんとにいつ何があるかわからないなと子供ながらに思いました。

転校生

震災から日がたち、特に被害のない地域なので何事もなかったかのように日常を送っていました。

4月。福島県からの転校生としてわっちが私のクラスにやってきました。わっちは津波で家が流され、仮設住宅の準備ができるまで約1年間おばあちゃんのいる広島県にきたとのことでした。お母さんやお父さんは福島県に残り、幼い妹と二人で。

私の小学校は制服がないのですが、わっちはいつも同じ私服を着ていました。服を含めた家財道具が津波によって流されてしまったからだそうです。

わっちは人見知りで無口でした。どんな声をしていたのか全く思い出せません。でもたまに見せてくれる温かい笑顔とリンゴのような赤いほっぺは鮮明に思い出せます。いつもみんなの話を黙ってニコニコ聞いてくれていました。そんなわっちのことがクラスのみんな大好きでした。

約束の1年後、わっちは福島へ帰りました。また家族みんなで福島で暮らせることを大変喜んでいました。本当は「帰らないで」って言いたかったけど「よかったね」と言いました。
転校する友達にかける言葉としてなかなか言うことないよな。

わっちのおばあちゃんはよくしゃべる活発な子だと私の印象と正反対なことを言っていたので、きっと私たちに素は見せてくれなかったんだろうな。やっぱり1年間は短すぎた。


3月11日が来るたび私はわっちを思い出します。東日本大震災がなければ絶対に出会わなかった人。この存在が遠く離れた広島と福島を繋ぎ、東日本大震災という忘れてはならない記憶を私の心に深く刻んでくれました。

震災はたくさんの被害をもたらしましたが、震災のおかげで気付けたこともあると思います。

人は希望に満ち溢れていたとしてもいつ死ぬかわからないこと。
行ったこともない福島県には真っ赤な顔で笑うわっちが住んでいるということ。

今日もどこかで全力で笑ってるといいな。


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