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人々が「多様性」と履き違えているもの

先日、ある有名人の方の訃報が入ってきた。
夕方ごろに市街地を歩いており横断歩道の手前で立ち止まったタイミングで
ふとLINEを開いたところ、グループで友人の一人が共有していたのをきっかけに僕はそのニュースを知った。

それに対し別の友人が「えぐ」と率直なコメントを残していたが、
僕自身も全く同じ「衝撃」を受けたと同時に、思考も一瞬停止したことがわかった。
そしてその後すぐに、気持ちが急激に落ち込んだ。

なんなのだろう、ご年配の方の「大往生」とはまたちがう感覚。
まさか、テレビやスマホでしょっちゅう目にしていた「同世代」が
今日突然この世から居なくなるなんて。

僕自身、常にわりと自信を持って街を歩いている方なのだが、昨日その一瞬で
それがものすごい「動揺」へと変わった。

彼女の生前の苦しみと絶望感を深く想像してしまった。
またそれに加え、自分の家族や友人、その他知り合いもいつ命を落としてしまうのかは本当にわからないんだ、そんな嫌な妄想も頭をよぎった。

生前彼女は、”自分らしく”生きることや多様性に関する発信をしていた。

さらに僕自身もこれから周りの人間とは多少ちがう生き方をしていきたいと思い、
少しづつ自分なりに行動を起こしていた矢先の出来事だったのだ。

「多様性」という言葉が、よく議題やトピックにあがる今日。
だが正直言って僕は、世間的にはまだまだこの考え方は全く根付いていないものだというふうに感じる。

みんな、いくら「多様性大事だよね」などと言っていても
いざ自分自身が問われる瞬間に直面すると、
大多数の意見に身を委ねて少数派を懸念・攻撃し
自分の身を守って安心する人がほとんど。

そして
自分の持つ「正義」をあえて客観視し、
その「本質」に基づいて物事を判断しようとする人はゼロに近い。


トドメに
「一人一人の個性を大切に」という自分の中の
社会的道徳観と、
「自分に正直になって生きる!」という
自分のアイデンティティとが、完全にごちゃごちゃになっているそんな状態。

それらの結果、その時々の自分の気分や感情、
プライドに揺さぶられることしかできない。

そのことに気づいていない人が
実際まだまだ世の中には多いような気がしている。

特に最後の3つ目に関しては
まさに、「一人一人の個性が大事なんだから自己表現も全て自由でいいはずだろ」といったような様子。

またこれらを機に
「自分らしさを発揮してやったぜ」的な無意識的な感覚がアイデンティティをより"強固"なものにしていく。(いろんな意味で)


彼女も生前発信していたように、たしかに誰にとっても”自分らしさ”はものすごく大切だと思う。


だがこの「自己表現」と、

自己満足への欲求を含んだ
他人に対する忖度の無い「自己主張」の間の

"境界線"が曖昧な状態というのが、
実はものすごく大きな問題なのではないかと考えている。

今回の彼女の死をきっかけに、
僕自身も身の回りの人間のことを気遣って大切にしながら生きないとな、と思った。

そしてくれぐれも
一度きりの人生を悔いなく生きていく上では大切な「自分らしさ」と

身の回りの人間や外の世界に対する「自己表現」の仕方やその「関わり合い」に関してを

しっかりと切り分けて考えながら
それぞれ向き合っていかないといけないな、というふうに感じた。

ryuchellさん、ご冥福をお祈りいたします。

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