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手のひらの上のつながりは「救い」かあるいは「虚しさ」か

 2019年の師走、記憶を辿ってください。世間を大きく騒がせたニュースを覚えているでしょうか?覚えてませんよね。大丈夫です。私も忘れてました。
 先日、そのころに書いた駄文を見つけて思い出しました。そう、連日報道されていた女子中学生の誘拐事件。誘拐された中学生はSNS上で知り合った男とやり取りをする中で、事件に巻き込まれたそうですが、多くの報道番組の論調は「SNSの使い方をもっと教育するべきだ」「SNSの危険性を子どもたちに理解させよう」というものでした。(教師としては、すごいわかるー、わかるわー、でも時間も余裕もないわーと涙で胃を潤していた)
 その中で、ある社会学者が、その論調のもっと先にある、根本的な問題について言及していたことが、私にとってはとても印象的でした。

 SNSの使い方や危険性を子どもたちに教えていくことはもちろん大切である。しかし、それだけでは、このような事件がなくなることはない。子どもたちが、なぜSNSなどのネット上でのやり取りをするかといえば、そこに居場所を求めているからである。
 インターネットやSNSが普及する以前は、自分の生きる現実や集団に希望を失い、迷い、逃げ出したくなったとき、実際に家出をするとなった場合、それを実行するのはなかなか難しかった。子どもたちの生きる限られた世界の中で、自分を連れ出してくれる大人や、かくまってくれる場所を探さなければならないからである。
 ところが、今の世の中はどうだろう。手の中にある画面の上で、文字を入力するだけで、共感してくれる人がいる。善悪はともかく、手を差し伸べてくれる人がいる。逃げ出す手段を提供し、力を貸してくれる人がいる。お金をくれるという人もいる。家出をしようと思えば、いとも簡単に実現することができてしまうのである。
 SNS上の人間関係ややり取りの深みに飲み込まれていく子どもたちの多くは、きっと、少なからず、自分を取り巻く世界や関係性に失望し、無意識のうちに居場所を求めているのではないだろうか。そこに思いを寄せない限り、SNSやケータイの使い方について、いくら指導を重ねても、それは根本的な解決にはつながらない。ただ単純に、子どもたちが、なんとか自分でたどりついた居場所を、取り上げることに過ぎないからである。

 なぜ、子どもたちがSNSやインターネット上に、居場所や関係性を求めているのか。危険性に対する意識や知識が少ないとばかり考え、そこに思いが至らなかったことを情けなく、反省させられる言葉でした。
 彼らの抱える寂しさや、失望、孤独、悩み、迷い、そこに目を向け、寄り添い、手を差し伸べ、支え、立ち向かう強さを育て、あたたかな居場所をつくることのできる、そんな大人でありたいです。

ーあとがきー
 今になって思えば、これは子どもだけの話ではないのかもしれません。犯罪者に違いはありませんが、事件を起こした誘拐犯も、あるいは他の聞くに堪えないような事件の犯人も、もしかしたら社会や人間関係から孤立している寂しさを抱えた人なのではないだろうか(だからといって許容できる範疇を超えていますが)。
 オンラインのつながりが良い意味でも新たな社会の潮流を生み出していることは間違いありません。コロナで売り上げが減った農家が、ツイッターで「買いませんか」と呼びかければ、たくさんの人が購入して即完売。新しいことを始めたい若者が、クラウドファンディングで資金を集めて企業する。パソコンの画面上で修学旅行や卒業式を行う。
 そういうリアルではない「つながり」に救われる人がたくさんいることに期待をする一方で、どこか心の中につながればつながるほど、虚しさを感じる自分を消し去ることができないのは、なぜなのだろう。

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