学童期の記憶

人生40年を過ぎても、自分の小さい頃の記憶は今だに覚えていることがある。全てではないが、忘れられないことがあるのだ。

人間の記憶力は、カメラで写す写真のように、瞬時に記憶できると聞いたことがある。

うそーん!と思う。僕も思った。それなら暗記系科目は楽勝じゃないかと考えたからだ。実際のテストではどうか。覚えていないことが多すぎて、点数も悪い。ほんまかいな。と思うのも無理はない。実感できないのだから。

なんでか。

覚えてないのではない。覚えているのに、思い出せないだけなのだ。では、なぜ思い出せないのか。それは、記憶する時の脳に与えるインパクトが思い出せる。思い出せないを左右するからだ。

仮に、新幹線に乗るとする。窓から風景を眺める。先程も言ったが、カメラの写真のように、その風景の全てを人間は記憶している。

では、眺めていた風景に、あるビルが映るとする。その屋上からライオンが飛び降りたとしたら、その記憶はいつまでも思い出せるはず。つまり、記憶する時のインパクトを脳に与えさえすれば、いつでも思い出すことができる記憶になる。

さて、話を冒頭に戻そう。小さい頃の記憶。僕は学童期の悔しさを今だに思い出すことがある。しかも、鮮明に。

小学4年の時、部活に入ることを許された。校則で高学年からしか入れないルールがあったからだ。僕は水泳部を選んだ。50m自由形の選手に抜擢してもらった。

練習では泳ぐ度にタイムが上がった。校内では同学年の誰よりも早く泳げた。タイムも毎回毎回2秒前後は縮んでいった。顧問の先生も驚くほどだった。

そして、大会本番。僕が相手にしなければならなかったのは、上級生たち。僕は4年生で出場したが、他校はほとんどが6年生だった。体力の差は大きかった。

見事な惨敗だった。

しかし、後味の悪い悔しさだけが残った。

ヨーイ!スタートで一斉に飛び込む。最初の25mまでは上級生たちにくらいついた。ターンした後、徐々に引き離された。35mを過ぎた辺りで、さっきまで見えていた隣のコースの上級生が見えなくなった。

負けたと思った。みるみる離された。ここで、僕は緊張の糸が緩み。全力で泳ぐのを諦めた。力なくゴール。余力は残っていた。身体をタオルで拭きながら、顧問の先生が待つエリアへ戻った。

すると、顧問の先生は僕に伝えてくれた。タイムは50秒代の自己新記録を更新していた。そして、今だに記憶する衝撃の一言を先生からいただく。

『最初のペースで、最後まで食らいついたら、41から42秒は出てたぞ』と。

途中、力を抜いた自分を悔いた。ゴール後の全然余力がある自分を悔いた。その日は全力を出さなかった自分を責めた。

今だに、思い出せる苦い記憶となった。

どうせ記憶に残すなら、喜びの記憶の方が良い。全力を出し切って、やり切ったと誇れる記憶が良い。

ならば、やることは自ずと見えてくる。さぁ、今日も自分にインパクトを与える努力をしよう。


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