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似合う服を、着ない

多くのファッション指南本では「似合う服を着よう!」という提案は当たり前のようにされている。

むしろおしゃれの前提になっているように思う。


もちろん「似合っている」は褒め言葉だし、言われたら嬉しい。


しかし、「似合うこと」が高度に体系化、理論化されていることで、かえってそれに縛られることはならないだろうか。


「わたしはイエベでこの色が似合うから、それ以外は着ない!(でも、本当は違う色が着たい…)」


といったように。


他にもスタイルアップ効果のある着こなしを重視し過ぎたばっかりに、

「わたしは足が短いから、センタープレスが入ったテーパードシルエットしか履けない!」

と思ってしまったり。


それはかえってコンプレックスを強化していることにならないだろうか。

むしろファッションの楽しさを矮小化しているようにも思える。


とは言え、特に女性がいわゆるカラー診断や骨格診断に傾倒する気持ちもわかる。

なんて言ったって、ウィメンズは選択肢が多すぎる。


あの品数の中から、「センスで選べ」と言われても途方に暮れるし、自信が持てるはずもない。

だれかに手伝ってほしいのは、山々であろう。


しかしその時、勇気を持って「似合う・似合わない」ではなく、「好き・嫌い」で選ぶことが、実はファッションに自信を持つための大きな手がかりになるようにも思う。


わたし自身、似合うかどうかはほとんど気にしていない。

これは「気にしなくて良いライフスタイルだから」という現実的な問題もある。


ひとり暮らし、ひとり仕事のわたしは、似合う服を着ても褒めてくれる人がいないのだ(笑)

365日、じぶんの好きな服を好きに着てよい立場にある。


だから呑気に「似合う服じゃなく、好きな服を着よう」なんて言える。

多くの人にとって、その提案こそ現実的でないのかもしれない。



それでもなお、「好きを大事」と言いたいのは、やっぱりそれがファッションを楽しむ秘訣であるように思うからだ。


実際のところ、肌や髪などは日々、変化しているわけだから、「似合うかどうか」も少しづつ変わっていっているはずである。

だから論理で結論づけて、それに頼り切っていても、いつかは合わない状態になると思われる。


つまるところ、自分で鏡を見て、自分で感じて考えることがいつだって必要だ。

ファッションのリテラシーはその「見て感じて考える」が基本になっているように思う。


理屈だけで「似合うこと」を重視すると、その「見て感じて考える」フェーズをすっ飛ばしてしまい、これはもったいない。


好きで選んで、好きに着る。

そして勇気を持って鏡を見て、たくさん失敗する。


そんな感じでファッションを楽しめていけたら良いなと思う。

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