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ただ、感じる。

ここ数年、自分の課題が浮き彫りになった。
それは、感受性の低さ。

その影響で、たくさんのコト・モノを失った。
「ホントは感動できたコト」
「大好きだったパートナー」
「良好な関係を築けた友だち」

周りの人が「心」が動くことも、自分は何も感じなかった。
大好きだった人には、相手の都合を考えずに想いを伝えた。
しっかり向き合ってくれた友だちから逃げた。

少し前までの自分は、自分の心を感じ、向き合うことに価値を感じなかった。
いや、「感じることができなかった」という表現が正しい。

「自分の想いは何なのか?」
「自分の心は何を感じているのか?」
「自分の身体に何が起きているのか?」

すべて大切なコトなのに、それらを感じることができなかった。

頭で考え、冷静に観るコトばかりしてきた。メリットとかノウハウとか具体的とか、目に見えるコトを大切にしてきた。

なぜか?

論理的に生きることが正しいと思い込み、周りの人たちを見下していたからだと思う。

5年前の自分は、まさにそんな他人を「論理」という自分の特性を使って、他人を見ていた。
感受性の豊かな人に、「で、どうするの?」「だからなんなの?」というどこか冷めた態度だった。

でも、少しづつ変わっていった。
相手のことを人間として見て、尊重するようになった。でも、まだ足りなかった。25年ほど「論理の世界が正しい」と思い込んでいた自分にとって、その思い込みを壊すには時間が短かった。
変わってきたのは、3年ほど前から。かなり自分の考えに柔軟性が育まれてきた感覚になった。

そして2022年4月。自分の中で革新的なことがあった。
感受性の塊みたいな人と関係が崩れた。それは自分の「感受性のなさ」が原因だったと思う。
相手の感覚がまったく理解できなかった。何を考えているのかわからなかった。

その時、ふと気づいた。

「あっ、オレは感覚的・感情的なコトがまだ乏しいんだ」

それからは、かなり考え方が変わった。
周りにいる「感受性の豊かな人」に対して、見方が変わった。

今思えば、自分の周りにはたくさんの「感受性豊かな人」がいた。でも、気づかなかった。なぜなら、その感覚がわからないからだ。
感覚的な人を認知できなかった。

その人たちのおかげで、自分の中で「感じるコト」が腑に落ちるようになった。
イヤなことがあった時、「胸のあたりにモヤモヤしたモノがある」と感じ取ることができるようになった。
嬉しいことがあった時、「うれしい!」と言えるようになった。

自分を感じ、それを表現する。

簡単な人も多いと思うけど、自分にとっては難しいこと。でも最近、それを意識できるようになった。

『ただ、感じる』

その大切さを実感すると、世の中の見方が変わった。
人に対する見方が変わった。

それは理屈じゃない。判断という基準はない。
ただ感じて、それを表現すればいい。

論理も大事だけど、感覚も大事。それを実感した今日この頃。

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