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小平の雑木林と『注文の多い料理店』と民主主義

小平市の小平中央公園で行われた、「第25回 月夜の幻燈会」に参加してきた。

大きな公園の一部である雑木林の中に大きなスクリーンを張り、そこに絵を映し出しながら、笛や太鼓の音と共に宮沢賢治の『注文の多い料理店』の朗読を聴く。本当に素敵な空間と時間だった。

会終了後に大はしゃぎでスクリーンの裏に回って陰で遊ぶキッズ達

参加した理由

この会に参加したのはこの企画に携わる方にお誘い頂いたから、という理由の他に、國分巧一朗という日本の哲学者が書いた『来るべき民主主義』という本があった。

この本では小平市での「道路建設問題」を発端に、我々が生きる「民主主義(であるはずの)国家」について疑問を呈し、考察をする。

小平市における道路建設問題とは、簡潔かつ少し乱暴にまとめてしまえば、「住民の多くが反対をしているにも関わらず、行政が多くの立ち退きと多大な自然破壊と共に道路を作ろうとしている」ものである。

小平市有権者の約20人に1人に当たる人数がその建設反対に署名をした1.4キロの道路。地域のコミュニティを破壊し、玉川上水や公園の豊かな雑木林を貫通して作られる予定の道路。当時と状況は大きく変わりその必要性も様々な角度から疑問の声が上がっているにも関わらず、60年も前に計画されたものにただ従う形で行政によって推し進められる道路。想定200億円以上の大金を使い、更にはその半分は国からの補助金で進められようとしている道路。一問一答のルールの下で行われた「説明会」によって正当化された道路。
(詳しくは『来るべき民主主義』を参照)

そんな、横暴で「市民の声がここまで無視されておいて何が民主主義だ」と言いたくなるような道路建設に対して、ただ「反対」の声を上げるのではなく、守ろうとしている雑木林の素敵さを広めるための活動の一つとして「月夜の幻燈会」も位置付けられる。

そうしたことを高校生の時に『来るべき民主主義』を読んで知ってはいたがそれ以降中々この話題に触れることは無かった。しかし、最近個人的な関心事として「再開発と地元への愛」があり、その文脈でも何か考えることが出来そうだと思い、頂いたお誘いにありがたく乗っからせてもらった。


向かう途中で

この会に向かう道中、こんな看板に出会った。

ハッとした。これを見て初めて、これまで本で読んできたことが「本当にある事」なのだという実感と共に自分の中に流れ込んできた。本当に、自分が大切にするものの為に長い間戦ってきた人たちがいるんだ、と。百聞は一見如かず、というか、人は直接触れないと本当の意味で何かを理解することは無理なのではないかと思わされる。それほどにこの看板に出会うことは僕にとって重要で、今から向かう会に携わる人達の想いをよりリアルに感じるきっかけとなった。


着いた~

公園に着き、雑木林の中を歩く。

スマホで足元を照らさないと危ない程の暗さだったが、向かうべき場所はすぐにわかった。想像の10倍以上の人が集まっていたからだ。

受付でリーフレットを受け取り、少しでもこの活動に貢献出来たらと森に住む生き物たちが描かれた缶バッチを買う。

可愛い。好き。

改めて集まった人を見てみると本当に沢山の人がいた。100席あるらしいイスは既に埋まっていたし、スクリーンとイスたちの間に敷かれたブルーシートには50人くらいのちびっ子たちが暗い中ワクワクしながら遊んでいた。

ちびっ子に混ざってスクリーン前のブルーシートに座る。こんなにも多くの子供たちがこの雑木林に馴染みを持った環境にいて、小さい頃からこうした素敵な自然と機会にアクセスがあることを知り、彼/彼女らをとても羨ましく感じた。(自分の周りにもあったのだろうけど行く機会は殆どなかったから)

ふと上を見上げると木々が空の7割くらいを隠していて、でもその隙間から見える星が美しかった。あぐらを崩そうと少し足を動かすと何か小さいモノに当たり、拾ってみるとドングリだった。ドングリなんて久しぶりに触ったな。

そんな色んなことを感じながら待っていると、しばらくして上演が始まった。ハンドベルの音と共に現実から少しの間離れ、物語の世界に入っていく。


『注文の多い料理店』と茹でガエルと自然破壊の不可逆性

(も少し小見出しのセンスが欲しいな笑)

小さい時に公文で読んだことがある『注文の多い料理店』。何とも言えない不気味さが印象的で物語は思った以上に覚えていた。

(↑一応貼っておきます)

森で迷い、お腹を空かせた男たちは偶然見つけたレストランに入る。そのレストランは「注文の多い料理店」と自称し男たちに様々な注文をしてくる。クシで髪を整えろ。帽子・外套を脱げ。鉄砲はここに置いていけ。このクリームを全身に塗れ。・・・・

始めはその注文の多さを「格式の高さの表れ」として理解し上機嫌で進んでいく男たち。次第にその怪しさを感じ始めてもその「自己納得」は続く。そして最後に「全身に塩をもみこめ」という注文でようやっとその「自己納得」は限界を迎える。

ある程度の年齢になってから、映画でも小説でも何かしらの「作品」に触れる時は「何を伝えようとしてるのかな」「何のメタファーなのかな」と深読みを自然とするようになってしまった。(何かを「そのまま」で受け取れないのは時に窮屈だ)

今回の『注文の多い料理店』も今回のイベントという文脈で、道路建設の話題と(無理やり?)繋げながら再解釈を試みながら話を聴いていた。なぜ主催者たちはこの作品を選んだのか。宮沢賢治はこのお話で何を伝えよとうとしているのか。


1:身近で小さな変化を見つめる

お話の中で男たちは次第に「普通」ではなくなっていく注文に対し、懐疑的な姿勢を見せながらも最後まで自分らを誤魔化し先に進む。

その様子はまさに、「少しずつの変化に無自覚であった、もしくは気付かぬフリを続けていたが故に、それらが積み重なった結果として大事おおごとになって初めて事の重大さに気付く」という人間の愚かさであると感じた。

「再開発」「新たな文化の創出」の名の下で人と人の繋がりや、人と自然の繋がりが断ち切られ、塗りつぶされていく。そんな少しづつの変化に気付き、それを見過ごさないでいること。更にそれに対して考え、何か行動を起こすこと。それが出来なければお話の男たちのように、自分の体に塩を塗り込むことを要求されて初めて我々は青ざめるのだろう。しかもお話とは違い、「白熊のような犬」は助けには来てくれない・・・

カエルはいきなり熱湯に入れられると、その熱さに驚き飛び出る。しかし常温の水にカエルを入れ少しづつ水を熱していくと、カエルはその温度の変化に気が付かず茹で上がって死んでしまう。

そんな状況にならないためには何が出来るのだろうか。自分の身の回りに転がっている変化や不満・もやもやの種を丁寧に見つめていく事は、山猫という名の「権力」からの注文(要請)にせっせと従うことを拒否することを意味する。そうした生き方から自分を誤魔化さないこと。これはかなり難しいと正直思う。世の中問題が溢れすぎていて、それらから目を背けた方が楽なのではと感じる時もある。しかしそうしないモチベーションをどこに持つのか。

自分が生まれた時よりも少しでもより善い社会にするという人間が持つ欲望のため?社会に自分を変えられないため?「卵」の側であり続ける覚悟のため?

それは人それぞれあるだろう。そんな十人十色の世界において我々は今のところ、どこまで「注文」に従っていて、あとどれくらいで「塩を塗り込む」ことを要請される段階にいるだろうか。
(コロナ禍での「自粛要請」というよく考えれば何ともヘンテコな言葉と、その効力の大きさを考えればあまり楽観的にはなりにくい。)


2:くしゃくしゃになった顔は戻らない

お話の中で、全てを理解した時男たちは

二人はあんまり心を痛めたために、顔がまるでくしゃくしゃの紙屑かみくずのようになり、お互にその顔を見合せ、ぶるぶるふるえ、声もなく泣きました。

宮沢賢治『注文の多い料理店』

そして、全てが解決した物語は以下のように終わる。

しかし、さっき一ぺん紙くずのようになった二人の顔だけは、東京に帰っても、お湯にはいっても、もうもとのとおりになおりませんでした。

宮沢賢治『注文の多い料理店』
しわくちゃな顔になった男たち

一度起きてしまったことは何をしても無かったことにはならない。
ショックでしわくちゃに歪んだ顔は何をしても戻らない。

そう、一度破壊された自然が元通りには決してならないように。


柵の重み

そうして上映が終わり、もうこれ以上ジッとしていられない!と言わんばかりにキッズ達がはしゃぐ中、帰ろうとブルーシートの端で靴を履いている時、ふと数メートル先に柵があり、その奥に何か白い看板が見えた。何だろうと近づいてみると

背筋がヒヤッとした。さっきまで子供たちがキャッキャ言いながら自然と宮沢賢治の世界に包まれていた空間の、ほんの真横がまさしく問題となっていた道路の建設予定地だった。

こんな林の真ん中を道路を通すのか、この国は。

実際に柵で隔てられた空間を見ることは、これまでぼんやりと反発意識を持っていた「道路」の姿をより一層リアルに突き付けて来て本当に怖かった。

自分が今立つ、自然に包まれながら豊かな時間を過ごした空間と、道路になる予定がある空間。

今ある自然と、これから無くなる自然。それが「一時的」もしくは「今のところ」共存する奇妙な状況を作り出しているのは、ただの木でできた看板と鉄の棒でできた柵のみ。

こんな柵、壊そうと思えば誰でも壊せる。
でもこの柵には権力が付与されていて人はそれに対して何も出来ない

何となく、寄りかかってみる。
何でもない、ただの鉄の棒。

これを乗り越えることは物理的には誰でも出来る。
でもそれは叶わない。

どれだけ多くの人が署名を集め、声を上げ、理論武装をしようとも、柵を超えるにはその足には社会システムという名の無限の重さを持ったおもりが繋がれている。

しかしながら、それは人々が無力であるということでは断じてない。

会の終了後、多くの人が缶バッジ等を通じて想いと資金を繋げる光景がそこにはあった。道路の話をちゃんと理解していなくとも、今回のようなイベントを通じて自分が住む地域の公園への愛を育む子供たちがそこにはいた。

たとえ、街の色んな所にこの看板があっても

帰り道、別の場所で見つけた

自然への想いを大切にしながら、色々な形でそれを繋げていこうとする人達がいる。

そんな姿に計り知れないほどの勇気と希望とワクワクをもらった一夜だった。

最後に作中に出てきたクリームを塗ってお別れ

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