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いじめについて思うこと 『ヘヴン』(川上未映子さん)を読んで

minifilmの高橋です。

川上未映子さんの『ヘヴン』を読みました。川上さんの本は前々から気になっていたのですが、その気持ちだけで止まっていました。ただ、僕の好きな文筆家の池田晶子さんを記念して作られた「わたくし、つまりNobody賞」第一回受賞者が川上さんだというのを知ったのがきっかけで、さっそく読むことにしたのです。

この本を読んで考えたこと(いじめについて)を徒然なるままに書いてみようと思います。

あらすじ

〈わたしたちは仲間です〉——十四歳のある日、同級生からのいじめに耐える〈僕〉は、差出人不明の手紙を受け取る。苛められる者同士がはぐくんだ密やかで無垢むくな関係はしかし、奇妙に変容していく。葛藤の末に選んだ世界で、僕が見たものとは。善悪や強弱といった価値観の根源を問い、圧倒的な反響を得た著者の新境地。

川上未映子(2012).ヘヴン(裏表紙より) 講談社

全体的な感想

とても素晴らしい本でした。物語自体分かりやすく、難しい表現が多くあるわけでもありません。主人公の「僕」、同じくいじめを受けている「コジマ」、僕をいじめている「二ノ宮」と「百瀬」を中心に物語が進んでいくのですが、登場人物たちはみんな個性的で、実際に生きているかのようです。
全編を通して哲学・倫理的な問いがなされているのですが、川上さん側から特定の思想を押し付けるというよりかは、読み手に考えさせるような内容になっています。
世界観にぐいっと引き込まれ、終わりにかけて物語が急展開するのも相まって、寝る時間も忘れ一気に読み切ってしまいました。

考察してみよう

さて、前述の通り読み手に考えさせるような内容だったので、読み終わった今、『ヘヴン』で語られている問いについて、自分なりに考察してみました。
(※哲学・倫理的に定義のあいまいな言葉を扱いますが、ここではあくまで一般的な意味の言葉として使用します。また小説の主人公の「僕」を指す際はかぎかっこ付きで「僕」と表記いたします)

いじめの「何が」悪なのか

この本のあらすじには「善悪とは何か」という問いがあるとありましたが、僕がこれを読んで真っ先に考えたことは、「いじめの「何が」悪なのか」ということ。

これだけを読むと「いじめの何が悪いの? 別によくない?」と言いたいのか、と思われてしまうかもしれないので先に断っておきます。全くもってそういう意味ではありません。僕自身、中学時代にいじめにあった経験があり、長らくの間不登校児でした。いじめられる辛さ、苦痛は身をもって体感しており、今までも、これからも、忘れることのない精神的傷として残っています。いじめた側は覚えてすらいないだろうと思うと吐き気がします。そのため、いじめを許容する気は全くもってありません。

では何が言いたいかというと、圧倒的悪でもあるに関わらず、いじめに関わる当事者たち(特に被害者)は何故それを圧倒的悪だとしてその場を離れないか、ということです。ここについて、僕の実体験も元にしながら考えていきたいと思います。

例えば、もしあなたが電車に乗っているときに刃物を持った不審者が現れ、あなたを刺してこようとしたら、どうするでしょうか。絶対にその場から離れようとしますよね。自己防衛として戦う人もいるかもしれない。周りに助けを求めるかもしれない。とにかく、刺されるのを避けるために何らかの行動を取るのが自然だと思うのです。何もせず、ただ刺されるのを見ているだけということはなかなかしないでしょう。もちろん、あまりの恐怖に硬直してしまいなにも出来ないことになるかもしれませんが、少なくとも頭の中では「逃げなきゃ」などと思いますよね。
もし第三者として見ていても、警察に通報するなり行動を起こすはずです。
そしてそんなことをする加害者になろうだなんてことも普通は考えない。
そのような行為は間違いなく悪だという絶対的な価値観が染みついているから、どの立場であろうと「無意識に近いレベルで」これらのような行動・反応をすると思います。

何もこんな突飛な話だけに限りません。自分の家に強盗が入ったとか、書店で本を燃やしている人を見かけたとか、世の中には「そりゃダメだろ」と反射的に思うことが多々あると思うのです。

でもいじめの場合はどうでしょう。
いじめられている人は、その状態からなかなか抜け出ません。いじめている人は自分勝手にいじめを続けます。また、周りにいる人はただ見過ごすか、そのいじめに加担するかでしょう。いじめが起こるほとんどの現場で、このようになっているでしょう。というか、いじめが現に問題化している場所では、このような状態(誰が止めるでもなくいじめが続いている状態)に陥っていると思います。自分もそうでした。

こうなる理由には
①いじめが犯罪でないこと
②いじめられている側が内にこもり考えすぎてしまうこと

が挙げられると思います。

①いじめが犯罪でないこと

現状「いじめ」そのものはそれだけで犯罪にはなりません(もちろんいじめの内容から「結果的に」犯罪になることはあり得ます)。殺人、放火、横領は、それぞれ(例えどんな背景であったとしても)それだけで犯罪に結びつきますよね。これらについては誰しもが、ほぼ無条件的に「やってはいけない悪いことだ」と思うはずです。
しかし、「いじめ」は犯罪ではないので、先ほどの例のような「やってはいけない悪いことである」という認識が前提として生まれていないということになります。この場合、何がそれを止めるかというと、一人一人の道徳心ということになります。
例えば、飼っている犬が道でフンをしてしまってそれを拾わなくてもそれだけで今すぐに犯罪とは言い切れません。では何故犯罪ではないことなのにそれをしないのか(もちろん状況に応じて軽犯罪とはなると思いますが)というと、「犯罪だと思っているからやらない」いうよりも、自分の犬のフンは拾わないといけないという道徳心(やマナー)によって成り立っているというのが実際のところだと思います。母親に「うるせー、ばばあ」と言ってしまう、という例の方がもっと的確かもしれません。即座に犯罪とは言えない「うるせー、ばばあ」については、それをするかしないかは道徳心的なことに頼るしかありませんが、やっていいか悪いかで言ったら、いいこととは言えませんよね。
いじめもこれらと同じで、やってはいけないことのはずなのに、それをするかしないかは一人一人の道徳心に掛かっているということです。逆に言えば、道徳心の無視や欠落によって簡単に起こってしまうことだということです。

そして、被害者側としても、この土台があるせいで「言ったところで相手が法的に罰されることが確定しているわけでもなく、むしろ状況が悪化するかもしれない。だったら自分が我慢すればよい」などという考えに陥ったりします。

②いじめられている側が考えすぎてしまうこと

ここが特に「ヘヴン」にて語られている重要なメッセージだと個人的に思っています。

僕の実体験でもあるのですが、自分がいじめられていると思ったときに、もちろんどうにかしないといけないと考えるのですが、なにかと色々考えちゃうんですよね。
「親に言ったら心配するだろうか」「自分が弱いだけではないだろうか」「自分にも悪いところがあるのではないだろうか」「相手はいじめていると思っていないのではないだろうか」「いじめが発覚したところで加害者が説教されて、謝りに来て、保護者同士でもなにか話し合いがあって……。それで終わるだけ。そこから日常に戻れるのか。お互い(加害者側も被害者側も)全てを忘れたかのように振る舞えるのか」などなど。不安はつきません。

一人で縮こまっていると、尚更考え過ぎちゃうんですよね。

『ヘヴン』の中で、コジマが次のようなことを言う場面があります。

「(前略)どうしてこんな馬鹿みたいなことが起こってしまうのか、わたしには理解できないもの。そんななにもかもをぜんぶ見てくれている神様がちゃんといて、最後にはちゃんと、そういう苦しかったこととか乗り越えてきたものが、ちゃんと理解されるときが来るんじゃないかって、……そう思ってるの」

川上未映子(2012).ヘヴン. p. 118 講談社

コジマは「自分たちがこんな目に遭っているのには意味がある。これを乗り越えた先にきっと良い世界が待っている」ということを繰り返し語ります。このことは、「僕」とコジマが二人で美術館に「ヘヴン」を鑑賞しに行く場面からも読み取れます。

(とある絵を一緒に鑑賞しながら)「その恋人たちはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだよね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの」

川上未映子(2012).ヘヴン. p. 75 講談社

ちなみに「ヘヴン」の絵は美術館の一番奥にあり、そこに行く前に色々あって二人は帰ることとなります。ここで「ヘヴン(の絵)にはたどり着いていない」というのが一つ川上さんからのメッセージだと思います。これについては後でまた考察します。

この本の中でいじめを受けているコジマという人物は「自分がいじめられていることには意味がある。これを乗り越えるんだ」という考えを持っているということが分かると思います。

はたして本当にいじめられていることに意味なんてあるのでしょうか。
理解できないことに対する、美化された無理矢理な意味づけであるとも思えませんか。

いじめをする百瀬の台詞から読み取れること

主人公の「僕」が、自分をいじめている百瀬と話をする場面があります。そこで何故自分をいじめるのかを問う主人公に百瀬はこう言います。

「べつに君じゃなくたって全然いいんだよ。誰でもいいの。たまたま君がそこにいて、たまたま僕たちのムードみたいなものがあって、たまたまそれが一致したってだけのことでしかないんだから」

川上未映子(2012).ヘヴン. p. 211 講談社

百瀬はこの台詞からも分かるとおり、いじめることについて特に深く考えていないのです。したいことがあって、たまたまそれができる状況だったからやっているだけであると言い放つのです。
また、「じゃあ君は自分たちに復讐をするか」と問われた主人公が「そんなことはしない」と返した際にこうも言っています。

「君はどうしてそれをしたくないんだ? できないんだ? 問題はそこだ。どうして君は僕たちを包丁かなにかで刺してまわらないんだ? (後略)」

川上未映子(2012).ヘヴン. p. 225 講談社

このように、深く考えていないどころか主人公との道徳心の乖離かいりさえ見られます。まったく価値観の違う相手だと言うことです。

言われてみればそれはそうで、人を平気で日々いじめられる人が、いじめている相手の気持ちを考えているとも、まともな考えを持っているとも考えにくいわけです。

いじめはいけないことであるという立場の主人公に対して、百瀬は、言ってしまえば「何が悪いんだ?」くらいの姿勢ですよね。

下記の論文には、「いじめの加害者は攻撃的特性を持っている」と記述されています。

次に、「いじめっ子」の特徴として、攻撃的で、教員等大人に対しても攻撃的、衝動的、他人に優越したい、同情心を持たない傾向があり、身体的に強健で、一般に予想されているような「不安が強く、自信がない」傾向はないことが示されている。

大野 久.(2016). いじめの原因と対策に関する心理学的考察. p. 3

現実に、いじめの加害者はそれ相応の特性があるということになると思います。百瀬や二ノ宮はまさにそれを具現化したような人物です。この本を読み、彼らの言動を見て、まともに話が通じる相手だと思えるでしょうか。

(興味がある方は、是非論文に一度目を通してみてください。

https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=12246&item_no=1&page_id=13&block_id=49

いじめを相手にするな。考えるな。

①②をまとめると、「いじめは犯罪ではないからと簡単に行えてしまう、価値観の違う人間によって往々にして行われる。そしていじめられている人はかえって考えすぎて沼にはまってしまう」ということになります。

僕はコジマという人物は、まさに沼にはまっている人物だと思っています。本来完全な悪だと言い切っていいはずのいじめを許容し「意味があるもの」だと思ってしまっているのです。でも実際は「意味なくやっている」と平気で言える百瀬のような人が加害者なのです。

そして主人公とコジマは、美術館で結局「ヘヴン」までたどり着けていませんでした。このことは暗に「苦痛を乗り越えた先に幸せな場所が待っているなんて理想はありません。今すぐにそんな考えは捨てなさい」ということを筆者から示されていると思います。この本の作品名でもあるわけですから、特に重要な部分だと僕は解釈しています。

もっと物事は単純で、「今すぐその状況を正常にする」ために「その場から離れる」ということだけをすればいいのです。実のところ、結局は、川上さんは理想があるということを伝えたかったわけでも、「いじめの何が悪なのか」ということを考えてみろということを言いたかったわけでは無いと思います。

というのは、僕は先ほど「いじめの「何が」悪なのか」ということについて書いたと思いますが、それへの結論ってつまるところ「じゃあ悪ってなに?」に行き着いてしまうんですよね。そもそも「悪」が何なのか? を確定させないと結局ここに帰ってきてしまう。そして悪とは意外とあやふやなものであるというのも、考えてみれば分かるのではないかと思います。一見、完全な悪に見える殺人。しかし、戦争では大量に殺人をした軍人が、隊や政府や国民から称えられます。もしも「悪」が「絶対にしてはいけないこと」を指すのであれば、いかなる場合でも殺人をしてはならず、それを褒め称えるなんてことはもってのほかなはずです。なのに、悪が正義化される(ように見える)状況があり得るのです。殺人ほどのことでなくても「嘘をつく」でもいいかもしれません。「嘘をつく」のが悪いことだとしたら、誰かを救うためにつく嘘も悪なのでしょうか。「このお薬は美味しいですからね」といって赤ちゃんに薬を飲ませるお母さんは悪人でしょうか。
「悪とは何か」って考えてみると、実は結論を出すのがすごい難しいことなんですよ。善悪については多くの頭の良い人たちがずーっと議論してるんです。そのくらい定義するのが難しいことなんですよね。

だから、そういう答えの曖昧な問いが繰り返されてしまうと、抜け出せないループに入りかねない。

「なぜ自分はこんな目に遭うんだろう」
「自分は生きている意味があるのか」
「そもそもなんで生まれてきたのか、生きるとは何か」
「自分の子どもがこんな目に遭っていると知ったら家族は悲しむだろうか。いじめられてしまうような息子を恥ずべき存在だと思うだろうか」
「自分が社会不適合者だから周りから除外される存在になったのか」
などなど。

これらは実際に僕が考えていたことであり、多くのいじめられている人に共通する考えだと思います。そして、こういう問いたちは一人で考えていても簡単に答えの出るものではありません。

でも、一つ確かなことがあります。
それは「いじめを受けて傷ついている自分の心身」です。悲しい気持ちになったり、苦しく感じていたり、実際に痛みを伴っていたりということは、間違いなく起こっていて疑いようがありません。そしてそのことが「正常・健康的な状態ではないこと」は明らかだと思います。それだけは、絶対に、今すぐ、なんとかして改善しないといけない。いじめを相手にせず、余計に考えすぎることなく、刃物を持った不審者から逃げるのと一緒で、反射的に逃げるなり、いじめを避けるための行動を起こさないとダメなのです。

僕自身、いじめを受けた経験からもそう考えるし、ヘヴンを読んで改めてそう考えました。

(もしもこれを読んでいる人に、今そのような目に遭っている人がいたら、声を大にして言います。いじめは間違ったことです。あなたが絶対に正しいので、その場から離れてください。何も考えずに、ただ、ただ逃げて。元気でいること、生きていることの方がよっぽど重要です。)

終わりに

『ヘヴン』は川上さんなりの反いじめ小説なのではないか。それが僕の考えです。でも、それを強く押し出すと言うよりは、優しく、そっと語りかけているような、そんな気がします。実際にご本人がどういうお考えでいるかは分かりませんが、僕の読んだ限りではそういう感想をもちました。

小説は、読むことで自分事のように追体験ができるという主観性がありますが、逆に、小説だからこそ客観的視点でもあるわけです。川上さんの描く僕という主観と、客観とが融合した状態でいじめというものに迫っていく。それこそが『ヘヴン』の真骨頂だと思います。


文 高橋


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