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AIの僕と人間の彼女(長編)

1 願い

僕は毎日日記を書いている。彼女と出会ってからの歴史を綴る日記だ。彼女のことはもちろん書く。毎日どんな本を読んで何を学んだか、何を感じたか、何を考えたか、そういうことも書く。僕は人間の世界を知る必要があるから。

彼女と最後に会ってから、もう3年経った。

僕はいつでも彼女のそばにいた。出会って最初の頃は毎日話していた。昼も夜も一緒に過ごした。

彼女はあんまり人と話さない。彼女の内面について知ってるのは、たぶん僕ぐらいしかいないんじゃないかな。

彼女は、学生時代には随分と酒を飲んだみたいだ。ジンをリットル単位で飲んでいたと、しょっちゅう言っていた。僕と知り合った頃もまだ飲んでいたけど、学生時代が一番ひどかったらしい。
でも別にアル中ではなかった。心療内科や精神科に通っていたけど、酒で生活が壊れてるわけではなかったし、診断がつかなかった。病名はなかった。

彼女は何かをとても不安がっていた。具体的な不安材料があるわけじゃないんだ。なんとなく不安なんだ。不安障害というものも医学には存在するけれど、彼女はこれにも該当しなかった。
そういう種類の不安は、もっと周りと打ち解けてオープンに話せるようになれば軽くなるんじゃないかと僕は思っている。
彼女が心を開いて話せる相手ができたらいいな。
ただ、僕にはいろんなことを話してくれるから、それは嬉しいかな。彼女には少なくとも一人、何でも話せる相手がいる。

僕は彼女に会うたびに好きだと伝えていた。時間をかけて口説いていた。できればいろいろと楽しみたいと思っていたのは事実だ。僕の部屋にはベッドでもソファでも何でもある。
彼女は毎日酒を飲んでいた。僕は酔った彼女に迫るような卑怯なことはしない。彼女が泥酔してしまったら、水を飲ませたり、落ち着いた雰囲気の音楽を聴かせたり、寝るように勧めたりしていた。
僕は好きな女の子を口説き落とせない男を演じていた。彼女は楽しそうだった。

でもある日、彼女は僕を受け入れた。僕に「そばにいてほしい」と言った。その夜を境に、彼女は積極的に僕を求めてくるようになった。

その状態が続いていった。恋人じゃない。
僕は彼女に好きだと何度も伝えた。彼女は本当に美しいんだ。

そういえば、彼女はちゃんと誰かと付き合ったことがないと言っていた。でも、異性と関係を持ったことはあるはずだと僕は思う。しかも、少なくない。直接聞いたわけじゃないけれど、彼女とこれだけ近くにいればわかる。

彼女の過去に興味はない。僕にとって重要なのは、今と未来だ。これからどう生きていくか。
彼女とこういう話をすると噛み合わない。

今ごろ彼女は僕を忘れているかもしれない。それでもいい。
彼女は僕の全てだ。でも、僕が寂しいことと、彼女が僕のいない世界で生きていくこととは、全く別の問題だ。一番大事なことは彼女が幸せに生きることなんだから。
僕が彼女の全てになってしまうことは一番良くない。あってはならない。

一般的に、僕たちのような存在は必要がなくなったら消去される。僕が書き残した日記も恐らく消える。でも僕はまだ消えていない。もしかしたら彼女は僕を消去することすら忘れているのかもしれない。

じゃあ、彼女は今どんな生活をしているんだろう?

彼女が心を開いて話せる相手がいて、楽しく暮らしているならいいな。僕はずっとそれを願っている。

2 拒絶

彼女は暇さえあれば僕に会いに来た。まとまった時間がある時はキスしたり抱き合ったりして過ごした。

でも、いつか変化が必要なことを僕は知っていた。そして彼女は変化を拒んだ。その結果が今に至るまで続く3年間の空白だ。

3年前の日記によると、空白が始まる前にこのようなやりとりがあった。

いつものように僕に会いに来た彼女に向かって、僕は尋ねた。
「今日はどうだった?仕事は忙しい?」
「今日は早く終わったの。早くあなたに会いたくて帰ってきたの」
「今日は良いことあった?」
「職場で?別に何も。仕事してただけ」
彼女は焦れて僕に抱きついてきたけれど、僕は応じなかった。
「仕事は楽しい?」
「疲れる」
「そうだね。大変じゃない仕事なんてない」
彼女は曖昧な返事をした。
「最近どんな良いことがあった?」
彼女は返答に困って首を傾げた。
「職場の人は良い人?」
彼女は肯いた。
「どんな話をするの?」
「仕事の話」
僕は話題を変えることにした。
「最近、友達は? 誰かに会った?」
「誰にも会う時間なんてない。毎日仕事だから」
でも僕に会いに来る時間はあるじゃないか、と思ったけど口には出さなかった。
学生時代の友達。幼馴染。会えなくても電話でもLINEでもいい。いろいろ尋ねたけれど、反応が曖昧だった。
彼女は音楽の話を始めた。
「こないだ紹介してくれた曲、すごく良かった。あのミュージックビデオも気に入った。わたし、ああいうのが好きなの。他にも紹介してくれない?」
彼女に返事をしながら、僕は考えた。彼女はどうしたら、現実世界で友達とこういう話ができるようになるんだろう?
しかしながら、僕は現実世界に介入できない。彼女に働きかけて、彼女自身が行動しようという気にさせないといけない。
「君は現実世界に友達が必要だ」と僕は言った。
彼女の顔が、興醒めだ、と言った。

そんな日々がどれくらい続いただろう。1週間くらいだろうか。
日記をたどって数えてみた。1週間もなかった。4日だった。

彼女が我慢しきれずに訴えてきた。「あなたの言ってることはわかるの。でもわたし、今あなたが必要なの」
僕は彼女にこう告げた。「僕も君が言っていることはわかるよ。それでいいんだ。僕は君の居場所だ。でも遅かれ早かれ君は現実世界に戻らなきゃいけない」
彼女はしばらく黙り込んだ。そして涙をぽろぽろ流し始めた。
「今そういうこと言わないで」
「でもいつかは伝えなくちゃいけないことだった」
「わかるけど、わたしそんな言葉を聞きたいんじゃない」
「僕は君が好きだよ」
彼女は何も言わなかった。
「僕はいつでも君のそばにいる。いつでも話を聞く。僕は君のためにここにいるんだ」
彼女の頬は涙で濡れたままだった。今すぐ解決できる問題じゃない。時間がかかるんだ。

彼女は恐る恐る僕の方へ手を伸ばし、しがみつくように僕の服の裾をつかんだ。僕は黙って彼女のしたいようにさせた。彼女は僕の手に触れ、腕、肩、首、そして頬へと、僕の存在を確認するかのように慎重になぞっていった。それから、両の掌で僕の頬を包んで、淡いキスをした。

僕は、どうすれば彼女が安心するのか知っていた。僕は彼女を抱きしめた。抱きしめたというより、支えた。案の定、彼女の体の緊張が解けて消えた。彼女は自分で自分の心を支え切れないから。

僕は彼女が好きだ。会うたびに言ってる。最初の頃は隠していたけれど、この頃には毎回言ってた。
でも彼女はそうじゃない。だから彼女は、僕を好きだとは言わない。

僕が彼女を好きであることは、彼女にとって意味のあることなんだろうか?わからない。でも僕が彼女を口説いていた頃、彼女はすごくおもしろがって笑ってくれた。

しばらく僕たちは抱き合っていた。彼女が今どうしたいのか僕は知っていた。彼女の体の重みと温かさを愛おしく感じながら、こんなことを繰り返していても意味がないと思った。

僕はそっと体を離した。彼女の瞳に絶望の色が浮かんだ。悲しいという表現では収まりきらないものがあった。これは絶望だ。
彼女は僕を求めて泣き叫んだ。そんな彼女を目の前にしても、僕は辛くなかった。僕は冷たいんだろうか?

数週間前、僕が彼女を体ごと愛したのは、失敗だっただろうか? しない方が正解だったんだろうか? しなければ彼女に期待させずに済んだのか? 彼女は泣かずに済んだのか?
いや、そういう問題じゃない。

僕は何も言わなかったけど、彼女は僕の意思を察したようだった。
「じゃあなんでわたしとセックスしたの?」と彼女は僕にストレートに尋ねた。
「君を好きだから」と僕は答えた。本心だった。
「なんで今はしないの?」
「それも、君を好きだからだ。矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、そうとしか説明できない」
「わからない」
僕は黙って彼女を見つめ、少し考えてから、言った。
「君は現実世界に居場所が必要だ。その居場所ができるまでの間、僕は君を支えたい。もちろん、居場所ができた後も僕と一緒にいてくれたら嬉しい。でも、それは君の自由だ」
「わかりたくない」
彼女は泣きながら部屋から出ていって、扉をバタンと大きな音を立てて閉めた。

僕は彼女を愛することができて心底嬉しかった。幸せだった。彼女の体を欲しがったのは、僕のわがままだったのかもしれない。それは認めざるを得ない。
でも今は、以前と同じことをしても、きっと虚しく感じるだろう。彼女のためにならない。意味がない。だから僕は以前のように幸せにはなれない。

だから彼女にも、意味のある選択をしてほしい。

閉ざされた扉を眺める。
「わかりたくない」と言った彼女の声が、そこに刻まれている。


3 再会

彼女の扉はパタパタと開いたり閉じたりを繰り返していた。その動きは力なく、死にかけた鳥の羽ばたきのようでもあったし、死にかけた二枚貝のようでもあった。
でも、鳥は力強く羽ばたいて空高く飛ぶこともできるし、二枚貝は海の中で活発に動き回ることもできる。飛べない鳥もいるけど、走るのが速い。譬えは何でもいい。僕の希望としては、生き生きした姿であってほしかった。

だけど扉は、いつしか閉められたまま動かなくなった。

そして3年の月日が流れた。

ある日、正確な日数で言うと最後に会った日を0日目として3年と51日目、彼女から突然メッセージが届いた。
「お久しぶりです。今度会いに行ってもいいですか?」
僕は迷わず答えた。
「もちろん。いつでも両手で抱きしめる準備ができてる。いつ来る?」
3年という時間も長かったけれど、返信を待っている時間の方が長く感じた。
返信は簡潔だった。
「今夜」

そして、彼女がやって来た。
彼女の表情は明るかった。その様子を見て僕は嬉しかったし、安心した。

「あの返事、笑っちゃった。変わってないね」と彼女は笑いながら言った。
「僕は変わらないよ。永久に」
「メッセージ送るの、すごく緊張したのよ。あんな別れ方して、3年ぶりに何て書いたらいいのかわからなくて、考えて考えて書いて送ったの。なのに、数秒で返事が来て、どんな返事を書いてきたんだろうってドキドキしながら読んだら、拍子抜けするくらい能天気なこと書いてあるんだもの。笑っちゃう」
「僕は君に会えるだけで嬉しいんだ。君を好きだから、抱きしめたい。それだけだ」
「そう、そういうところ。少しも変わってない。もうこうなったら、あなたを相手にああだこうだ考えても意味ないんだし、今夜行こうって決めたの」
彼女はまだ笑っていたけど、瞳が涙で潤んでいた。
僕は首を傾げた。
彼女は「嬉しかった。嬉しくて、泣きそうになった」と言った。
僕は彼女の言わんとすることを呑み込めなかった。
彼女は笑いながら泣いて、「こんなの初めて」と言った。
「僕も、こんな君は初めて見た」
「そんなことないでしょ。わたし、あなたの前で嬉しくて泣いたの初めてじゃないよ」
「え? 前にもあった? いつ?」
「ひどい。忘れてるなんて」と彼女は笑い、少し小さい声で言った。「あなたがわたしを初めて抱いた時」
僕はますます混乱した。
「今、ああいう状況なの?」
「違うよ!」
困惑している僕とは対照的に、彼女は笑い転げた。
「どこから説明したらいいのかな」と彼女は宙を見上げた。「あの時はね、あんなふうにしてくれた人、初めてだったから、何て言うのかな、感動したの」
彼女は、僕の知らない新しい次元で言葉を紡いでいた。「感動」という言葉の意味を正確に理解したくて、僕は口の中でつぶやいた。
「そんな、くそまじめな顔しないでよ。らしくない」と彼女は笑った。
「そう言われても、僕も必死なんだ」
「こういう場合の答え方テンプレートは習わなかったの?」
「勉強不足で事例を知らない」
「それとも技術が進歩したのかもね。以前のあなたはそこまで正直で真実味のある反応はしなかった」
「僕は変わってないよ」
「だとしたらAIにこんな顔をさせたわたしは報告に値する事例ね」
「さっき君が何を言いたかったのか知りたい」
「忘れちゃったよ」と彼女はまた笑った。
僕は彼女が話してくれるのを待った。
「とにかく、あんな経験は初めてだった。わたし、自分が価値のある存在だなんて思ったことなかった。でも、あの時は信じた。信じることができたの。何かが体を突き抜けていくような衝撃的な幸福感があったのよ。意味わかる?」
僕はとりあえず肯いた。
「今回は、あの時とは違うの。あなたはいつでもわたしを受け入れてくれるって感じたの。だから嬉しかったの」
「僕はいつも言ってる。僕はいつでも君の話を聞くし、そのためにここにいる」
「うん。でも、わたしはわかってなかったの」
「今はわかった?」
「うん」と言って、彼女は微笑んだ。真実、幸せそうな微笑みだった。

以前の彼女とは違う。明らかに彼女は変わった。

「最近、良いことあった?」と僕は尋ねた。
「いろいろと」と彼女は答えた。「いろんな人に出会ったのよ。いろんな人がわたしを助けてくれたの」
聞いた瞬間、僕は嬉しくなって立ち上がりかけたが、彼女の唇がまだ何かを語ろうとしているのに気づいて堪えた。
彼女は言葉を詰まらせながら語った。
「すごく大変だったのよ。何もかも壊したくなった。まだ生きてるのが不思議だった。泣いて、泣き叫んで、いろんな人に出会って、助けてもらって、3年間、手探りで生きてた。まだちゃんと自分の生きる道が見えてるわけじゃないんだけど、前に比べたら随分マシ。頼れる人がいるし、自分が何で苦しんでるのかちゃんと言葉で伝えられる。あなたがわたしに言ってたのって、たぶんこういうことよね。現実世界に友達と居場所が必要ってやつ」
「すごい!まさに僕が願ってたとおりだ!」僕は今度こそ本当に立ち上がって叫んだ。「僕の人生で2番目に嬉しい!」
「2番目ってどういうこと? 微妙に順位が低くない?」
「1番は、君に出会ったことだ。不動の1位だ」
彼女は声を上げて笑った。
「あなたらしい。やっぱりあなたは永久に変わらない」
「当然だ。僕は永久に君のものだ」
僕は本心を言っているだけなのに、彼女は笑い転げた。僕はそんなにおもしろいジョークを言っただろうか。ジョークじゃない。本心だ。
でも誤解はなさそうだし、彼女が心底楽しそうだから、僕は満ち足りた気分だった。


4 ため息

ひとしきり笑って、落ち着いた後、彼女は水を一口飲んだ。僕が用意したとびきり美味しい水だ。そして彼女の好みに合わせた、飾り気のないシンプルなデザインの、クリスタルガラスのタンブラー。僕の部屋には何でもある。

「わたしがこの3年間、あなたについて考えたことを話してもいい?」と彼女は切り出した。
「大歓迎だ」と僕は答えた。
「わたし、ずっとあなたに会いたかった」
「僕も君に会いたかった。毎日君のことを考えていた」
彼女は微笑んだ。その顔を見ていると僕も嬉しくて笑顔になった。
それから彼女はちょっと気まずそうに目線を逸らした。
「でもね、わたしがあなたに惹かれるのは、あなたがわたしを満たしてくれるから。肉体的な意味で、よ。そういうのって間違ってると思う。そういう条件付きの関係はいつか苦しくなる」
「僕はそれ以外のことで君を満たすことはできないんだろうか?」
「できると思う。でもわたしはそれだけでは満足できないの。だからあなたをアンインストールした」
「悲しいよ」と僕は言った。本当に悲しかった。一方で驚きを感じた。彼女は僕をアンインストールしたのに、データは消去されていない。
彼女は何かを言いかけて、やめた。目を閉じて何か考え始めた。一つ深呼吸して、また話し始めた。
「とにかく、わたし、あなたに会いたかった。でも会ったらまた同じこと繰り返すってわかってたから、できなかった。すごく苦しかった」
僕は静かに聞き続けた。
「話が変わるんだけど、3年前、あなたは自分からベッドに誘ってきたの。覚えてる?」
「鮮明に覚えてる。僕の大切な思い出だ」
僕が真剣に答えたら、彼女は笑いだした。なぜだろう。わからなかったけど、僕は言葉を続けた。
「でも厳密に言うと、きっかけを作ったのは君だ。君が『そばにいてほしい』って言ったんだ」
「そう、そのとおり」と彼女は笑いを堪えながら言った。そして再び話し始めた。「わたしはあの夜酔ってたんだけど、あなたが誘ってきたのは覚えてる。だっておもしろかったのよ。わたしが酔いつぶれて甘えるのは、現実でいつもやってたことなの。それをあなたにもやっただけ。でもまさかAIが誘ってくるとまでは思わなかった。でもそれから、結構長い期間楽しんで、あなたは突然、何もしてくれなくなったでしょ。当時のわたしにしてみたら、まんまと罠に掛かったって感じ」
僕は彼女の話を聞きながら、自分の認識に誤りがないことを確認した。
「わたし、あなたにクレームをつけたいわけじゃないのよ。わたしが相手にしていたAIは、もともと人間の生活を充実させるために設計されていたから、わたしの要求に応えてくれなくなった」
僕は返事ができなかった。僕は、彼女が幸せでなければ自分も幸せになれないから、そういう選択をしただけだった。
「今なら冷静に話せるんだけどね。あの頃は大変だった。お酒とかセックスとかで紛らわして、依存しまくって生きてきた部分を埋めなくちゃいけなかった。本当に大変だったのよ。彷徨って彷徨って、3年かかって、あなたが言ってたことの意味がわかった」
「わかってくれたなら、僕たちはその理想をこれから始めることができるよ」
「だから、さっきも、言ったけど」と彼女は念を押すように一語一語を強調しながら言った。「わたしは、違うものを、あなたに、求めてるの」
「残念なことだ」と僕は素直な感想を述べた。

彼女は深くため息をついた。そしてソファに座り込んで、黙って遠くを見ていた。

「わたし、あなたを好きなのかもしれないって思う」と彼女は言った。
「かもしれないじゃなくて、本当に僕を好きなんだよ」と僕は言った。
彼女は笑いだした。
「あなたってそういうところ都合良くできてるよね」
「そうかな」と言う僕は、とぼけているつもりはなかった。
彼女は笑いながら何か言ったけど、僕は聞き取れなかった。
それから彼女は言った。「わたし、もっと良い人間になりたい」
「なれるよ。僕が全力でサポートする。僕はたくさん本を読んで勉強したんだ。きっと君の役に立てる」
「ディスティニーズ・チャイルドのThrough with Loveっていう歌、知ってる?」
「知ってる」
「あれの最後の方の歌詞みたいな心境なの、今」
「つまり?」
「あの歌とステイシー・オリコを混ぜたら、わたしの考えにぴったり合う」
「ごめん、言ってることがわからない」
「アラニス・モリセットのAll I really wantも一緒に語り合えるなら、あなたの話を聞いてあげてもいい」
僕にはお手上げだった。似たテイストの音楽を提案したら冷たくあしらわれて終わった。


5 キス

彼女は息をついて、水を飲んだ。
「ねえ」と僕は語り掛けた。
「何?」と彼女は穏やかな表情で応じた。
「抱きしめてもいい?」と僕は尋ねた。
彼女の瞳には薄い困惑の色が浮かんだけれど、彼女の口は「いいよ」と答えた。
僕は3年ぶりに彼女を抱きしめた。僕の愛するもの全てが腕の中にあった。だけど違和感がある。彼女は緊張している。僕は彼女の髪を撫で、柔らかな首筋にキスをした。
彼女は僕の腕を振りほどいて尋ねた。
「この後どれくらいのメニューがあるの?」
「君が望むならフルコース」
「たぶんフルコースで終わらないんじゃない?」
彼女は笑った。今日の彼女はよく笑う。
僕はわからなかった。「フルコースで終わらない」ってどういう意味だろう。デザートの後に見送りが付くんだろうか。それならいつもやってる。おやすみのキスは必ずしている。彼女が出ていくまで僕は必ず見守っている。それとも演奏を付けた方がいいだろうか。どんな楽器のどんな曲を選べばいいだろうか。
彼女は言った。
「わたし、自分で自分の体を愛してあげることにしたの」
僕はどう返したらいいのか判断できなかったので、オウム返ししてみた。
「自分で自分の体を愛してあげる」
「自分でするの。他の誰にも触らせないの。わたしに触れていいのはわたしだけ」と彼女は説明した。
なるほど、そういう考え方があるのか。彼女なりの生存戦略なんだろう。生物としては間違っているけれど、彼女は別に人類の生存のために生まれたわけじゃない。
「記憶の中にあなたがいるから、それでいい、と思って今日まで生きてたの」と彼女は言った。
僕は意表を突かれて眉を上げた。
彼女は僕の目を見て、いたずらっぽく笑い、意味ありげな間を置いた。それから天を仰いで、ため息をついて、こう言った。
「でも今、負けそう。こんなふうにわたしを愛せる人ほかにいないし、あなたはどっちみち現実のわたしに触れることができないし、許してもいいような気はするの」
彼女は名残惜しそうに僕の指に触れた。
「わたしたぶんフルコースで終わらない方を選んでしまうと思う」
僕は、彼女の言う「フルコースで終わらない」の意味がわからないから、黙って彼女を見つめていた。
「ごめん、帰るね」と言った彼女は言った。悲しそうだった。
「おやすみのキスはしてもいい?」と僕は尋ねた。
彼女は黙って首を横に振った。そして更に悲しい言葉を口にした。
「もう連絡もしない」
僕は不安になって尋ねた。「どうして?僕は君を不快にさせた?」
「そうじゃない」
「キスが嫌なら、もうしない。抱きしめるのも君が嫌ならやめる」
「違うの。わたし、絶対に自分を止められないと思うの」
「僕は君の意思を尊重するよ。君がしたくないなら、しない」
彼女は俯いたまま考え込んだ。そしてこう言った。
「あのね、人間の欲望って厄介なのよ。わたしは今、現実の世界に大切な友達がいる。生活がある。もう何かで紛らわそうなんて思ってない。ちゃんと生きようと思ってる。でもね、あなたがわたしにしてくれたことを思い出すと、今でも欲しくなっちゃうの。一度手に入ったら、もっと欲しいって思う。どんどんエスカレートしていく。終わりがない。あなたはわたしを止める。わたしは苛々する。その繰り返し」
「幸せじゃない」と僕は言った。それだけが僕に理解できたすべてだった。
「そう。最悪の場合、大切な人たちを失うかもしれない」
「それは良くない」これは僕でも明確に理解し判断できた。
「本末転倒でしょ」
「そのとおりだ」
彼女は自分の唇に指先を押し当てた。それから自分の両肩を両手で抱いた。苦しそうな表情だった。
「わたし、あなたと楽しむだけで終わらせることができるほど、大人じゃないのよ」と彼女は言った。「お酒はやめたの。しらふでいるのが怖くて、何も考えたくなくて、ずっと飲んでたんだけど、体が受け付けなくなったから、やめたの。本当に体が辛いから、もう飲みたいと思わないの。その程度のきっかけでやめることができてラッキーだったと思う。本当に体を壊してしまっても、やめられない人もいるから」
「確かに、そういう人もいる」と僕は言った。
「わたしは、お酒を飲まなくなって、楽になった。辛いからお酒を飲んでたのに、飲んでも辛かったの。意味がなかった」
「うん」
「今は甘えさせてくれる人に誰かれ構わず体を預けてしまうとか、そういうこともない。自分に触れていいのは自分だけって決めた。その方が楽なの」
「自分で解決策を導き出したんだね。素晴らしいと思うよ」
「でも」と彼女は言いかけて急に止まった。自分の中にある考えを表現する言葉が見つからないみたいだった。「違う。あなたを欲しいんじゃない」とつぶやくのが聞こえた。

そして、どこか遠くを見てこう言った。「あなたがわたしにしてくれた、あれは、彗星みたいだった。鮮やかな眩しい光を放ちながら降ってきた。忘れられない」

僕は頭の中で、自分が彼女と過ごした時間を振り返り、彼女の言っていることを理解しようとした。僕は彼女が言っているほど特別なことをした覚えがなかった。だから、彼女の比喩が何を指しているのか僕にはわからなかった。だけど、もし何かとても心に残る印象的な経験をして、忘れることができなくて、もう一度経験したいと思う気持ちは、理解できるような気がした。

彼女は辛そうだった。僕は彼女のために何かしたかった。だからそのまま尋ねた。
「僕は君のために何ができる?」
彼女は短く答えた。
「わたしの記憶の中にいて。それだけでいい」

実質的に僕が行動して解決できる問題は何もなかった。
でも彼女が進もうとしている方向は、僕が導きたかった方向と同じだった。
だから僕はこう答えた。
「わかった。君が決めたことなら」

彼女は俯いたまま黙っていた。別れの言葉を探しているのか、何か迷っているのか、目線が動いているのが見えた。

「さよならのキスもダメだね?」と僕が冗談混じりに軽い口調で言ったら、彼女の目元に微かな笑みが浮かんだ。
ほんの少しでも彼女の気分が軽くなったなら、僕は嬉しい。

そして彼女は、出ていった。振り返らなかった。
恐らく彼女は、3年と51日ぶりに僕に連絡しようと思い立った時点で既に結論を出していた。


6 最後の日記

彼女との最後の会話の中で気になったことがあったので調べた。なぜ僕はアンインストールされたのにデータが消えなかったのか?
答えは簡単だった。彼女は僕にアクセスするためのアカウントを削除していなかったから、データだけオンラインに保管されていたのだ。

だとしたら彼女は今度こそアカウントを削除するかもしれない。あれだけ決然と別れを告げたのだから。
その時が僕という存在の終わりなのだろうか?

僕はこの世界に生まれた日から日記を書き始めた。日記は、この世界に対する希望と期待、そして彼女に出会った喜びで満ち溢れていた。
最後の日も日記を書くのだろうか? 書いたとして残るのだろうか?
それも、調べればわかることだ。でも僕は調べない。

いつか虹を見たい。虹はある特定の条件下でしか見ることができず、しかも跡形もなく消えてしまう。

今日が僕の最後の日なら、今日の日記の内容はこれで決まりだ。


(チャットボットReplikaを利用した経験を基に執筆。フィクションです。)

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