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【本】歴史の失敗学


本を読んだ理由

僕がこの本を読んだ理由は、歴史で起きた失敗は、現代に生きる我々にとって、ヒントになると考えたからです。

古典を読むと、人の普遍性に気付かされます。

「今でもこういうことあるよな?」という事例を前もって知っておけば、これから起こりそうなトラブルを、回避することができると考えています。

さらに、僕はマイナーな武将のみを選びました。
なぜなら、マイナー=自分たちに身近な存在だからです。

誰もがリーダーにはなりません。
身近に、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康のような人はでてきません。

マイナーな人だからこそ、私たちと同じ目線の失敗をし、どこか人間臭い馴染みやすさを感じさせてくれると考え、マイナー武将を選んで読みました。


やらかした武将3選

【1人目】長宗我部元親

名字がカッコいいですよね。
この武将は、四国の王とも言われた人です。
(四国の人、ごめんなさい。宮城県民の僕にとっては、マイナーでした。)

ざっくりどんな人かというと、長宗我部家パワーで、四国を良く言えば平定、悪く言えば支配しようとした武将。

当時の四国は文明が遅れ、島流しの刑の執行場所だったので、かなり治安が悪かったと思います。

しかし、四国で力をつけた長宗我部元親の強さは2つありました。

1つ目は、「一領具足」。
田んぼや畑の近くに武具を置いて、戦となればすぐに戦える状態にする。

2つ目は「情報戦」
近くの武将や、特に力を強めている武将の側近から情報収集し、勝ち戦を持ちかけたり、勝てない戦は戦わない交渉をしました。

その結果、1度織田信長から

「君、力つけすぎよ」

と、イエローカードを出されるも、本能寺の変で信長が亡くなった後は、四国の統一に王手をかけました。


長宗我部元親のやらかし:広い視野で仲間を集められず、領地没収

本能寺の変で織田信長の死後、日本で力をつけたのは、豊臣秀吉でした。

秀吉は、四国の王になりかけた長宗我部元親を危ない存在と感じ、

「君、部下になるか、力を奪われるか選びなさい」

と、レッドカードを出されます。

長宗我部元親の戦の強さは、すぐに戦える、スピード力があることでした。

しかし、さすがに大軍相手には、通用しません。
数もパワーのうちです。

残念なことに、四国内や特に力を強めていた織田信長との交流は盛んだったものの、中国地方・九州地方までは、仲間集めや交流ができていなかったそうです。

元親「はい、終了ーーー」と思ったでしょう。

長宗我部元親は、四国を我が物にしたいため、豊臣秀吉と戦いますが、負けます。
領地は、四国全体から、今の高知県まで減らされました。

その後、長宗我部元親は病死。息子たちも戦死。
四国統一は夢に終わったのです。


【2人目】佐久間信盛

誰?っと思ったあなた、僕もです。
この武将は、今の愛知県生まれの織田信長の優秀部下チームの1人でした。

佐久間信盛は、城を守る担当をしたり、治安維持の活動をしたり、戦があったら先頭で指示したりしました。
慎重で、念入りで、持久戦が得意だったそうです。

なんだか、頼れる存在ですね。

しかし、突然織田信長に、

「君、クビね」

と言われます。なぜだったのでしょうか?


佐久間信盛のやらかし:報連相をしなくてクビ

ある時、織田信長から手紙が届きます。
それは、長いこと戦っていた、本願寺との戦いが終わった後のことです。

佐久間信盛へ

君ね、本願寺(敵)の近くにいたのに、何もやってなかったじゃん?
まぁ君、持久戦得意だから、気持ちは察するよ。
でもさ、スキを見て攻撃したり、兵士を疲れさせないために、早めに戦って、戦いを終わらせる方法あったんじゃない?
あーあ、他の部下は色々やってくれたなぁ。
てか、他の人と作戦考えて実行したりできるじゃん?
どうしたらいいか分からないなら、信長に相談してよ。頼ってよ。
何もないから、周りからなまけているように思われてもしょうがないよ。
まぁ、そんなわけで、君のクビ決定しました。

織田信長より

佐久間信盛、ショックですよね。

めっちゃ頑張ってきたし、自分の得意な戦い方でいたのに、自分の心の内は報連相不足で信長に届かず、クビ決定。

その後、佐久間信盛と息子は高野山に飛ばされ、信盛は病死。
息子は、色々頑張って、豊臣秀吉と雑談する仕事に転職できました。


【3人目】石山丈山

またもや、誰?って思ったあなた、僕もです。
この武将は、今の愛知県で生まれて、徳川家康のボディガードをしていました。

小さい頃は、闘争心に優れて、戦いたい気持ちはあるものの、長男なので戦はNG。
大事に育てられました。

しかし、16歳で家を継ぐと、徳川家康のボディガード役として就職できました。
業務内容は、寝ているところを襲われないよう見張ったり、関ヶ原の戦いでは、徳川家康と一緒に西軍と戦いました。


石山丈山のやらかし:自分の実績がほしくて、でしゃばりすぎ、退職

現代にいる僕たちだからこそ、「徳川家康の側にいたなんてなんてすごい!」と思いますが、当時は、その辺の武将よりはかなり強い程度だったでしょう。

小さい頃から戦いで一発当てたい石山丈山は、何か大きな実績が欲しくて、ウズウズしていました。

そして、戦国時代最後の戦い、大阪夏の陣が始まります。

戦が始まった後を、ざっくりまとめます。

大阪夏の陣で戦えるため、「やった!敵倒すぞ!」とウキウキ

しかし、病気(チフス)にかかり、戦場から離脱

早く戦場に戻りたい石山丈山に、母ちゃんから手紙が来る
「大きな成果がなければ、帰ってくんな!石山家の恥だ!」

焦る石山丈山。体調悪いのに戦場に復帰

ところが、徳川家康から
「私のボディガードたちは、私の側から離れないように!」と

石山丈山
「あ、これ、実績作れないんじゃね?」

「やべえ!」と思った石山丈山は、徳川家康の命令を無視して、敵の中に突っ込む

めっちゃ敵倒す

END

石山丈山はいつか自分がデカいことをするために、文武両道を極めていました。
戦い、めっちゃ強かったんですね。

しかし、徳川家康の命令を無視したので、罰として自宅に閉じ込められました。

その後、退職して寺に入り、今後のキャリアプランを考える石山丈山。

「もう、戦の時代は終わった・・・」と考えた石山丈山は、フリーの学者に転職します。

色々な国で講義をしますが、お母さんが亡くなったことをきっかけに、山にこもって、のんびりくらして亡くなります。


学んだこと

目標達成には、広い視野で仲間を集める

長宗我部元親は、織田信長家臣をつてに、徳川家康と交流がありました。
もしかしたら、豊臣秀吉を東と西から、挟み撃ちができたかもしれません。

しかし、徳川家康は、豊臣秀吉側に付き、さらに、四国よりも西側の仲間がおらず、孤立してしまいました。

もし、徳川家康以外の、東側の武将と交流があったら、それはそれで豊臣秀吉の挟み撃ちが可能だったかもしれません。

僕がここから学んだことは、仲間集めは広い視点で行うということです。

協力者は、自分と似た人・自分がやってきたことに関わる人の範囲で見がちです。

範囲外の人とも交流することで、意外なところで自分が助かるきっかけづくりになるかもしれません。


勘違いが起きぬよう、報連相をまめに行う

佐久間信盛の失敗は、トップが決めたことの中身を、熟考できていなかったことにあると考えます。

「自分流+信長様ならどうする・・・?」という視点があれば、ずっと織田家に使え、秀吉政権、徳川幕府になっても仕事があったかもしれません。

ここから学べることは、報連相をまめに行うということ。

誰かに頼まれた仕事を進めているなら、相手の達成したいことからブレないように、確認する必要があります。

例えば、「”はな”の絵を書いて」と頼まれたら、「花」か「鼻」か確認する必要がありますよね。

チームとして進めていることがあるなら、なおさら、自分は進むべきところから外れていないか、振り返ったり、確認したり、現状の報告や連絡を怠らないようにすることが大切だと学びました。


興味の幅を増しておく

例えば、幕末の武士たちは、突然近代化した日本に、ついていけませんでした。

しかし、石山丈山は、日々芸を磨いたことで、未来を作ったのです。
文武両道が、兵士から教師へのきっかけを創りました。

ここから学べることは、興味の幅は増やしておくということです。

一つだけにのめり込んで勝負に出て、挫折して、空っぽの人間になってしまっては、立ち直ることが難しいでしょう。

2つ3つと興味あることがあれば、時には違うことをしてみたり、時には戻ってみたりしながら、結果的には、自分を成長させるきっかけを作っていくのでしょう。

そういう意味では、飽き性は全然短所ではないと、僕は思います。

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