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世のPh.D.課程の皆さまは冬休みいかがお過ごしだろうか。私はといえば学期期間中に目をつけておいた本の消化や来学期に向けた準備、気ままに古い本の整理をしたりしてのんびり過ごしている。

先日、Derrick BellのFaces at the Bottom of the Wellの邦訳 (「人種主義の深い淵ー黒いアメリカ・白いアメリカ」中村輝子訳) を読んだ。同じデパートメントの人が、人生を変えた一冊だから是非 (授業で出てきたパートだけでなく) 通して読んでみて!と全体メールを回していたくらいだったので、時間ができたら読もうと思っていたのだった。ありがたいことに邦訳が出ていたのでそちらで読んでみた。

ハーバードの法学者だった筆者Derrick Bellがあえて選んだフィクションという形式。確かにDu Boisの文章を読んだ時からレイシズムというのは生きた経験であり無味乾燥な学術テーマとして論じきれる話ではないというのはひしひし感じていたのだが、読了してみて改めてその意味を実感した。ある被抑圧者の視点 (standpoint) を真に「わかる」には、「為る」経験がおそらく必要で、そのためには伝統的なアカデミアの書き方を超えた表現方法が戦略的に取られる必要性が実際あると思った。私にとってのMin Jin LeeのPachinkoが、メールを回してくれた彼女にとってのこの本だったんだろうとも思った。

知は伝統的な学問・書物だけに存在する訳ではない。その土俵に登ることを許されていた人たちは誰か、「資格がない」と許されなかった人たちは誰か。そうして排除された人たちの視点や経験を「価値がない」と評価することの権力性・恣意性・排他性 ー 社会学を学び始めた今なら、説明する言葉が私の中にある。きっとこの本はそうした言葉をまだ持ちえておらず被抑圧状態の只中にある人が読んだ時、大いに救いになるのだろう、と思った。自らの経験が、語る価値のあることとして本の中に描き出されていることを発見した時の救われるような想いを、私は知っている。

Bellは本の中で (7章・ある法律学者の、プロテスト)、いかに優れた学問的成果も、伝統から外れた形式で発表される場合には問題にされないこと、政治的或いは実際的テーマを研究するマイノリティー出身者は学問の世界にイデオロギーを持ち込むとして敬遠されることを書いている。

昔私が学部生だった頃、リベラルアーツのdisciplineの垣根の極めて低い環境で伸び伸び育った私は、追求したい問いに資するならどんなアプローチを使おうと (組み合わせようと) いいじゃない、というチャンポン的なスタイルができかけていた。
そうして今後やりたい研究テーマについて色んな分野の視点をつまみ食いしながら書いた研究計画は、とある面接の場で (名前も顔も覚えていないけれど) 面接官の教授陣に「ふざけているのか」とボロクソに言われたのだった。まぁ本当に低クオリティの未熟な計画だった説は否めないと思うけど、そんなに人格否定に片足突っ込んでいるようなトーンで全面否定されるほど酷いこと書いたかなぁ…と当時は悔しさと情けなさとで落ち込んだりもした。結局実際大学院に進学してからは別に何も言われなかったというか、好きにやりな、という感じだったので好きにやったのだが。
(ちなみに、今回アメリカに来る際に受けたフルブライトの面接では、逆に面接官の先生方は「これは読んでみた?面白いと思うよ」とむしろ親切に教えてくださった)
まぁ、あの時そこまでボロクソに言われた本当のところの理由はもちろんわからないのだけど、政治学でも国際関係学でも経済学でも無い"よくわからない"ものを持ってきたことに対して怒られたのかなぁと、そんなことを思ったりしたことをBellの文章を読んで思い出したのだった。

この春学期は授業以外に、フルブライトのEnrichment ProgramというやつでCivil Rights Movement関連のセミナー合宿 (という言い方が合っているのかわからないが) に参加できることになり、それも今からとても楽しみだ。

英気を養って新学期に備えたい。

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