生きなきゃと思った話

祖母の家が売れたらしい。
その家は祖母と祖父と母が暮らした家だ。
母は結婚してわたしたちが育った家を建てているし、
祖父はわたしが生まれる前、祖母ももう10年近く前に他界しているから、
誰も住んでいない空っぽの家だ。

実のところ、時たまこの空の家のことをわたしは考えていた。
ものすごく現実的に。
わたしも結婚して地元を離れているし、
父母も高齢に近づいてきて、
この建屋をどうしようかということを考えていた。
売れたらそれはラッキーで、
もしかしたら処分にむしろ金銭を払わなければならないだろうなと覚悟していた。

そんな娘の密かな葛藤などまったく必要なく、
母はきっちりそれを自分の課題として片付けたようだ。

それはとても、きっとよいことだ。

やったねと笑えばいいだけなのにできなくて
わたしはそれに自分で酷く驚いた。

ひとが、誰かひとが生きた証が墓標なのだとしたら、あの家は確かに祖父と祖母の墓標のひとつだった。

それがいま無くなるのだ。

わたしはまあまあお茶請けにはなるかもな、くらいには波乱万丈な20代を生きてきて、
死にたいと思ったことは本当に何度もあるし、
その気持ちを抑えるために飲んだ薬とまわった医者のことは多分これから先も考えたくないとおもう。

そこそこヘビーな希死念慮を抱いたことがあるわたしが、
瞬間、「死ねない」と思った。

もちろんいまは充実した毎日でしあわせだらけなんだけども、
死にたいなんて思わない代わりに別に生きたい!と強く念じながら日々を過ごしているわけでもない。

でも生きたいと思った。
なにをしても、強く、濃く生きていたい。

今この世界で、祖父と祖母の墓標が生きた証が、確かに存在していた証がひとつ消えていった。
もう減らしてはならない。
物はいつか失くなるし、朽ちるかもしれないし、所有者も変わる。

でも思いだけはけして失くなることも朽ちることも所有者が変わることもない。

わたしだけのものだ。

誰かが生きた証をわたしに刻んで刻んで生きる。

そうしていつかわたしの心臓が止まるとき、
誰かの証でいっぱいになったこの思いをぎゅっと濃縮して
わたしという存在に代えて
誰かがこころに刻んでくれたら、うれしい。

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