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人類みなオペッタヤン!

「おもろい」があるならば
逆の「おもろくない」ってあるんでしょうか?

なにを「おもろい」とするかっていうのは
考え方の問題であり表現の問題でもあると思うんです

例えばちょっとひねくれてる人がいて
表面的にはちょっと「おもろくない」かもしれない
でも本来人って楽しく遊んだり会話したりしたいはずなのに
わざわざひねくれているとしたら
それって「なんでなんだろう?」と興味が湧きませんか?

そう思うと極論
「おもろくない」すらも「おもろい」ということになるし
やっぱり自分のマインド次第で
なんでも「おもろい」になるんです

これは「オペッタヤン」についても同じことが言えます

「オペッタヤン」とは
フィンランド語で「教える人」を意味する言葉
「opettaja(オペッタヤ)」から来ています
これが派生して関西弁ぽく「オペッタヤン」と言い
私の2022年のテーマとして掲げている
キーワードでもあるんです

今年は「おもろいオペッタヤン」を探す年ですから
「オペッタヤン」とは何なのかについても
考えていきます

学校や塾や習い事の先生はもちろんオペッタヤン
お父さんやお母さんもオペッタヤン
大人たちにいろんな気付きと学びをもたらしてくれる
子どもたちももちろんオペッタヤンですね

でもね、視野を広げればオペッタヤンって
もっともっといるんです

例えば私にはオペッタヤンと言える
「お地蔵さん」がいます

それは私がまだ子供の頃のこと
いつも通る道にそのお地蔵さんはいました
そのお地蔵さんは近くに行くと
ニコッと微笑んでくれるように私は感じていたんです

おじいちゃんおばあちゃんが
お地蔵さんを撫でながら
「いつも守ってくださってるんだよ」と
教えてくれていたからかもしれないけど
お地蔵さんが微笑みかけてくれて
私は「ありがとうございます」って言って
それで幸せな気持ちになっていました

あるとき、お地蔵さんが
帽子を被せられたり着物着せられたりしていたんです
それを見たとき、お地蔵さんは
笑顔じゃないように感じたんですね
いつもとは違う気がした

でもお地蔵さんが動くわけないですよね

そこで私は自分がなぜそう思ったんだろう
ということに興味を持ちました

そこでわかったのはやはり私のほうの問題だということ
服を着せられたお地蔵さんを見て
「なんだか重そう」と感じていたから

人間関係でもそう
ちょっとご機嫌ななめな人がいたら
その人に影響されて自分もなんか嫌な気分になっちゃったり
でもそれを全然気にしないで楽しめる人もいる

つまりは自分の意思が自分に返ってくるということです

その自分の心の動きに気づかせてくれた
お地蔵さんはオペッタヤンだし
自分の心もオペッタヤンだと言える
ひいては、それに気づけた自分もオペッタヤンかもしれない

「おもろい」と「オペッタヤン」は
数珠つなぎの関係で
くるくる循環しているんです

人生って一見悪いと思う出来事でも
結果的に必ずしもそうではないと気づくことってありますよね
それによって人生が豊かになったとか
人の気持ちがよりわかるようになったりとか
無理して我慢している自分に気づいたりとか

そういうふうに捉えられるのは
オペッタヤンのなせる技です

そういった「経験」をオペッタヤンにできているということ
だから自分自身もオペッタヤンです

面白い生き方をしている人は
自分がやりたいことしかやらない、って言いますね
もし「おもろくない」に気づいたら
そこから上手に離れていける人も
おもろいオペッタヤン

そして人生に深く入り込んでくる
本や音楽もオペッタヤン

でもそれらを生み出し
受け取るのは人間ですよね

そう、つまりは人類みなオペッタヤンなんです!

2022.3.10
下向峰子

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