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桜が教えてくれたこと

ふと気づいたこと。

私は以前、特に若い頃、人を理解したい・理解しようと思っていた。

特に気になる人や好きな人のことは理解したいと思って一生懸命に考えて「こういうことなんかな?」「こうしてほしいのかな?」とか、「前にこう言ってたから、こうしたらええんやな」と思って行動しては逆鱗に触れた。逆に私がしんどくなって怒りが爆発して関係が拗れたりして傷ついて、人と深く関わるのはやめようと思ったりしていた。

だけど今、ふと思うと、その頃の理解したいという気持ちは「自分が理解できるように相手を自分の常識の中に当てはめたい」だけだった。だから、自分の中の常識と違うと「何で?」ってなったり、ひどい時は「許せない!」ってなったりしていた。それはぜんぶ自分の理解できる範囲を超えただけだったのに。

理解したいと思いつつ、自分の常識である「こういうもんでしょ?」「普通こうでしょ?」「何で私が理解できるようにしてくれないの?」という思いを相手に押し付けたり、逆に同じようなことをされたら説明しても理解されないことが多くて、最終的に「言ってもわからんやろし、この人、こう思い込んでるからもう話したくない」と思っていた。

相手への想いが強ければ強いほど理解したいと思いながらも、こうであってほしいという自分のエゴを押し付けていただけなのかも知れない。

それって、たぶん愛じゃないんだな。

そういうのが愛なんだと勘違いしてたとこがあった。自分が押し付けてる時は「愛だ」と思っていても、人からされた時は「愛なのかな?」というモヤモヤした違和感があって居心地悪くて嫌だった。それはきっと愛じゃない。

そして分かりたいし理解したいという思いが強ければ強いほど、相手の気持ちからズレて離れていくのだ。心は自由なのに、自分の理解の内に相手のことを押し込めて考えようとする。その行為は愛というよりエゴや執着なのかも知れない。

桜が咲いて満開に近づいてきて、昔好きだった人のことを思い出した。だからそんなことを思ったのかも知れない。

その人のことを本当に好きだったんだろうか。知りたいし理解したいと思っていたけど、私はいつも自分が善意と思っている事を押し付けてただけかも知れない。「喜んでほしい」と相手からの気持ちを欲しがってただけで、その人のことを考えてはいたけど、その人の心は何にも観ずに無視していたのかも知れない。

理解できなくて「なぞなぞ出されてるみたいで嫌だ!」って言ったことがある。それから20年以上も経って、私はまだそのなぞなぞを解こうとしてるのかなぁ。時間が経って、ふと「あぁ、こういうことを言いたかったのかな」「こういう気持ちだったのかな」と感じる時がある。必死に理解しようとしてた頃にはまったく分からなかったけど。ふとした瞬間にその人が言ってた言葉がよぎって届くことがある。

分かりやすいことが良いことなんだと思ってた。世の中には分かりやすいことと、分かりにくいことがあって、それをすぐに理解できることが人間として優れているのだと思っていたのかな。

時を経て、分からなかったことが突然分かる瞬間があるということの方が、実はすぐに理解できることよりも豊かな気がする。それは私が歳をとったから、そう感じるだけかも知れないけれど。

桜を見ていろいろ思い出し、自分の理解できる範囲内に押し込めて考えて理解したフリをすることは愛じゃないけど、その奥にあった「分かりたいから一生懸命だった」という部分は愛だったのかも知れない。答えは永遠にわからない。わからないからこそ、知りたいからこそ、私にとっては大事な思い出になっているのか。

いろいろ感じてる内に満開になってきた


毎年、思い出そうとしなくても桜を見ると思い出す。桜は咲いているだけだけど。

夕暮れの桜が個人的に好きです

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