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卒業文集

 「おい,隆信。卒業文集出してないの,あとお前だけだぞ。」
 クラス委員を名乗る男が俺にそう告げた。卒業文集とは,中学校3年間を通して最も思い出に残るエピソードについて書く作文のことである。とはいえ,俺は中学校3年間の思い出なんてない。全て忘れてしまったのだ。
 時を遡ること1週間,俺は記憶喪失となった。起きた瞬間,自分が何者であるのか,自分がどんな奴とつるんでいたのか,まるで忘れてしまっていた。俺が生きてきたこの15年間は,俺の中でなかったことになったのである。2月の下旬に差し掛かった時期の突然の出来事であった。
 自分のこと,人間関係のことについて何も覚えていないという身体感覚から,俺は今,自分がいわゆる記憶喪失という現象の渦中に主人公として巻き込まれてしまったということをすぐに察知した。そして,まずは部屋の中の情報から自分が西川隆信という名を持つ15歳の中学生であることを知った。さらに部屋を漁ると,無造作に置かれた高校の入学書類を発見した。どうやら俺は,4月から私立星城高校という高校に進学することになっているようだった。
 机上に鎮座するiMacに手を伸ばし,この高校に関する情報を検索した。私立星城高校は,県下トップの成績を誇るエリート高校であった。自分が在籍するなんの変哲もない公立中学校からであれば,年に1人進学すれば上出来であろう。記憶喪失という状況に対してパニックに陥ることもなくここまで適応している自分自身を俯瞰するに,俺の知能はすこぶる高いらしいことは勘づいていたが,入学先の高校について理解を得ることでその直感は根拠のある確信へと変わった。
 記憶を喪失したことを学校で言うと,生徒や教員らはいたずらに騒ぎ立てるだろう。それは本意ではなかった。俺はできる限り穏やかに過ごしたい。所詮はあとほんの1ヶ月の付き合いしかない人たちである。適当に誤魔化して,適当に愛想をよくしておけば,波風が立つことなく俺の中学生活は終わり,中学時代の知り合いなど一人もいない新天地にて晴れて「新生西川隆信」として新たなスタートを切ることができる。俺ならばそれがやれる。俺は高校で生まれ変わるのである。
 そう決意して1週間が経った時のことだった。俺の俺自身への見込みに狂いはなく,中学校生活最後のひと月に上手に順応していた。友人たちともうまく話を合わせることができており,クラスの中に自然に溶け込んでいた。
 そんな折,クラス委員の男は卒業文集という名のついた思い出の提出を促してきた。中学生活はおろか,生まれてからの15年間の記憶を丸ごと失った俺が思い出を語るなど実に滑稽で馬鹿馬鹿しい話ではあるが,平穏に中学校を卒業するためには書くしかない。俺自身の知るこの1週間の出来事を思い出として語るのは奇を衒っていると見做され,悪目立ちする恐れがある。従って,適当にそれっぽい思い出を見繕って捏造することが必要であり,それ自体は造作もないことであるが,クラスメイトから不審に思われないためには,読者に違和感を抱かせないような,できるだけ妥当性のある思い出を記述する必要があった。
 そこで,無難な思い出を見つけるために卒業アルバムのサンプルを拝借し,自分が写る写真を探した。学校行事なんてものは実に馬鹿げていて,俺のことだから参加していなかったとしてもおかしくはなかったが,体育祭のページにだけは俺の姿が散見された。それらの写真から,参加した種目やチームメンバーが誰であるかなどという情報を読み取り,存在しない思い出を騙った。全力で取り組むことのかけがえのなさや仲間への感謝などのありきたりな内容を,ありとあらゆる美辞麗句を並べて表現した。俺の文才はそれを不自然なく,美しく,華やかに彩った。そうして,誰が見ても思い出として遜色のない,立派な卒業文集の1ページが完成した。
 卒業式当日,それはクラス全員に配布された。クラスメイトは俺のページを見て涙した。本当は目立ってしまうことは本意ではなかったが,どうせあと1日で断絶する人間関係であるし,俺の文章が感動をもたらすものとしてポジティブに評価されることに関しては悪い気がしない。俺の文章で好きなだけ泣くといい。そんなふうに悦に浸っていると,クラスメイトの1人から声をかけられた。目には涙を浮かべていた。
「ごめんな,俺,お前のこと誤解してた。難しいやつと思ってあんまり関わらないようにしてたけど,俺らのことこんなふうに思ってたんだな。ごめんな,気づいてやれなくて。」
このクラスメイトの言葉によって堰が切られ,他のクラスメイトも口々に俺への思いを言葉にした。
「すげえよな,星城って。そっちの高校でも頑張れよ。」
「文集で俺のこと書いてくれてありがとう,お前とチームメイトになれてよかったよ。引っ越すわけじゃないんだろ,たまには俺たちとも遊んでくれよ。」
「ここ1ヶ月くらい,なんか雰囲気変わったよな。よくわかんねえやつだと思ってたけど,楽しかったぜ,ありがとう。」
 そんなふうにして,中学生活最後の日に,クラスメイトは思い思いに本音を俺に語りかけ,また同じようにそれぞれ語り合っていった。口火を切ったのは,他でもない俺の卒業文集だ。俺はこの1ヶ月そうしてきたように,適当に誤魔化し,愛想をよくしながら話を合わせておいた。
 かくして,記憶喪失が契機となって「中学時代の友達」ができた。一足早い高校デビューであった。その後に担任から受け取った通知表には体育祭での頑張りが評価されており,打算の影がちらついていた。

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