これって吐き出しなの? いえいえ、かつて仕事先にいたひとにまつわる、文章の練習ってことにしておくといいかもしれませんねぇ。

語られない物語を胸のうちに
抱え込むことより大きな苦しみはない
(マヤ・アンジェロウ)

There is no greater agony than bearing an untold story inside you. (Maya Angelou)

過去に経験した嫌な情景が何度もよみがえってしまう。気がつくと、もう関係しなくてもいい他人との不快なやり取りを頭のなかでやっている。それは「苦い」記憶だからそうなるのか? それとも苦楽に関係なくたんに「強い関わり」ゆえなのかどちらなんだろう? よく分からない。

わたしに見えている世界はとても狭い範囲に限られているのだし、周囲のひとはたいてい皆それぞれに優秀だと思っていたけれど、仕事先に配属されてきた年配者のH郎さんはわたしよりモノを知らないのでほんとうにびっくりした。自分から「あやつり人形」になりたがるひとを初めて見た。

嫌な情景について何か文章を書くような予感がしていたが、書かないまま数か月が経った。たまたま文体に関する本を開くと、語る主体を変えてみることが説かれていた。退職済みのH郎さん本人の視点で文章を作るとどうなるのか興味がわいてきた(そんなことが可能なんだろうか、うらみ節にもせず、誰かを貶めることもなく?)。

書くことで嫌な情景を手放すこと/letting goになるかどうか? それも分からないまま、手放せても手放せなくても、ライティングの練習がてらに言葉をつなげてみようか、と

✻✻✻

現状、どれほど職務を遂行する能力が足りていなくても、日々努力を重ねるという方向にはけっして進まないでおこう。手をとめたまま、誰か親切なひとが逐一指示してくれるのをひたすら待ち続けよう。

メモを取ったところで意味はなく、かぶせ気味に大げさな相槌を打っておけば充分。仕事の説明を聞くあいだは、必ず足や腰を小刻みに動かして貧乏ゆすりをしよう。ときおり左手の腕時計に目をやるのも忘れずに。

そして、相手の言葉は決して受け取らないようにしよう。その方法は大きく分けて二つある。

【1】即座に跳ね返すこと。「やってませんよ!」でもいいし、ごまかしきれないときは、こちらが普段どれだけ周囲に気を配り、礼儀を大切にしているかを言い募るのもいい。【2】紋切り型のフレーズで応えること。なかでも「分かりました。勉強になります!」はとにかく万能だ。これさえ言っておけば、相手がどんな立場の誰であってもあらゆる場面で通用する。

軽いあいさつ程度の雑談でも、きわめて重要で注意力が必要な業務手順でも、この決まり文句に勝るものはない。理解できた気がしても理解できないままでも、あとから自力で作業手順を再現できなくても、相手の言葉が途切れたらすかさず「分かりました。勉強になります!」と声に出しておきさえすれば大丈夫。これをやり続けて一度も注意されたことがない。

上記のどちらの方法にせよ、相手の言葉は間髪を入れずに打ち落とすに限る。ほんの一時であっても、ひとの言葉やその意味を受け取ってしまえば、こちらの負けが確定して破滅的なことになるのだから。

もし同室の、自分より古いスタッフが不手際を指摘してきたら、全力で否定しょう。同じことで再び注意をうけても「それは ”初めて” 聞きました」とうそぶいてやり過ごそう。

この会社に来てみたら理想の職場とはぜんぜん違っていた、前職でわたしはとても高く評価されていたのに! と話し合いの場ではっきりと発言しよう。そして「この会社・ここの社員は古い体質でけしからん」という、ナルシスティックな憤怒の酔いで自分を満たし続けよう。自分の至らなさから目を背け続けるために、そこにある痛みに触れないために、それが最大の効力を発揮する。

演技で、申し分なく仕事が出来ているひとのフリをしよう。失敗を省みるどころか、むしろ逆に、平均をはるかに超えて有能・優秀であるかのように見せかけた演技・態度・ふるまいに全力を注ごう。(小さく、身を低くするどころか)堂々とした尊大な態度をとり続けて相手に勘違いさせよう。そのためにも予防的に、「さしすせそ」を使っていい気分を味わわせて木に登らせよう。

表層的なハッタリだなどと嫌悪感を示すひとが出てきたら、そんなふうに露骨に嫌な顔をみせる行為がいかにビジネスマナーとしてあり得ないか、強い言葉で叱責して思い知らせてやろう。小学生でもひとを不快にさせちゃいけないって知っているのに、そんなことも分からないなんて! 言葉使いの慇懃(いんぎん)さでは、わたしは誰にも負けていない。圧倒的に一番だ。

一つまた一つと設備を壊しても、不良品を多く出しても、他の部署から苦情が来ても、どこまでも他人事の姿勢で、詫びる言葉はひたすら避けよう。「ちゃんとやってます。出来ています!」と断言して強弁を貫こう。言い張ることでこれまで幾度も取り繕ってこれたのだ。まっすぐに力説しよう。

詫びる言葉が一度も口から出てこないことを問われたら、「えっ?言ってますけど?」と平然と言ってのけよう。さらには「そ~んなこと言ってるのはほかに誰もいません。○○さんだけですよぉ?」と、ガス・ライティングさながらの応対をしよう。

そうすれば黙らせることができる。口を封じることができる。敵の目を欺(あざむ)くことができる。

温かみのない輩もいるにはいるけど、なんとしてもこの会社にとどまろう。欠点のないひとの真似をしていれば、一人分の給与がまるっと毎月振り込まれるのだからチョロイものだ。演技してればうまくいく。われこそは、無垢な新生児をいつくしむがごとく手厚く処遇されて当然なのだから。

✻✻✻

これで全部だろうか? いや全部なはずはない。それに、いくら書いてみたところで外側から見えたそのひとでしかない。結局、そのひとのことは、ほんとうには誰も知りはしない。

それが謎であって、ずっと解かれることがない謎であるがゆえに、くり返し想起されてしまうのかもしれない。

ところで、こんなひとって実在していたんだろうか?(してたよ!)書いてみたら、な〜んかどっちでもよくなってきたかも。フフフ。さよなら、記憶のなかのひと。

<終>

✻読んでくれてありがとう✻