【連載小説】「みつばち奇想曲(カプリース)」第四話
「ルーヴル」。その名前を聞いて、父の顔が浮かぶ。
絵画を観ることも、油絵を描くことも好きだった父は、「絵の勉強がしたい」と単身パリへと旅立った。どうやら、その頃には既にあちらにガールフレンドがいたというから、「単身」といえるかは微妙なところだが。
そんな父のことを、母は離婚後も「勝手だ」とも「無責任だ」とも「気持ち悪い」とも罵ったが、美憂は身体一つでどこへでも飛び立てる自由気ままな父の姿に憧れた。いつかパリに行き、ルーヴル美術館で父と再会することが夢になった。父に会いさえすれば、小学生の頃に美術館で感じていた目に見えぬ世界を、どこまでも深く広い精神世界を、再びふたりで漂うことができる気がした。
「もし、本当に絵画が好きならば、私の通う学院に来れば世界のどの美術館にも行くことができるわよ。必須の単位さえ全て取り終えていれば、好きな時に好きなところに自由に行くことができる。語学留学でもホームステイでも、パリの美術館巡りでも、どこへでも行けるの。私たちが大切にしているのは、個人の意思と自主性よ。学習目的を示して申請すれば、学院が必要な手続きをするし、旅費も必要ないわ。それに、外部特待生であれば学費も免除されるから、お母様に負担を掛けることもないの」
「そんな都合の良い学校、聞いたことがない」
「そうね。ほとんどの生徒が幼稚舎からで、外部から入学できるのは本当に一握りの特別な子だけだから。なかなか外に情報も出ないはずよ。けれど、これは本当の話なの。私たちは、本当に叶えたいことがあるならば、金銭的な理由でそれが阻害されてはならないと考えているの。学院に寄付された資金も、そのために使われるのよ」
「……その学院って?」
そう尋ねながら、彼女の纏う衣服に目をやる。
彼女の身に着けたワンピースは、この辺りでは見かけたことのない艶のある上質な紺色の生地で作られていて、襟元と袖口は繊細なレースで縁取られている。一見ドレスのようでもあるが、胸元には太陽のような模様の校章が金色の糸で刺繍されており、それが制服だと認識できた。
「私たちの学校は、私立クレール女学院というの」
母が言っていたお嬢様ばかりの名門学校の名だ、と美憂は思う。
「私は、あなたみたいな女の子に自分自身を諦めてほしくないの。子どもだって、やりたいことを叶えるために道を選んでいいはずよ。良かったら、もう一度真剣に進路のことを考えてみて。……あなたの夢は、何?」
彼女は美憂の手を握って、瞳の奥を五秒間ほど見つめる。
「私の夢は……」
美憂がその問いに答える前に、彼女はベンチからさっと立ちあがり、そのまま人混みに紛れてどこかへ行ってしまった。
彼女の姿が見えなくなると、いかさまに遭ったような、もしくは幻でも見ていたような、そんな感覚に陥る。握りしめていたミネラルウォーターのペットボトルの水滴がゆっくりと指の間を伝って落ちていく。
「……諦めることをしなくていいの? 本当に?」
彼女の最後の声が、いつまでも頭の中で木霊していた。
買い物から戻った母は、気に入った秋物のスーツを見つけたようで、ふたつの派手なショッピングバッグを赤く実ったさくらんぼのように揺らしている。洋服店の前を通りかかると、マネキンが並ぶガラス扉に、上機嫌な母と母に向かって笑顔を向ける自分の顔が映る。そこには、ラ・トゥールの「いかさま師」で描かれた少年のように無垢な顔をした少女がいた。何も知らない顔をして楽しそうに笑う少女が、その内側で何かを叫んでいることに美憂は気づき始めていた。
そのひと月後、担任教師の片桐史子から「私立クレール女学院高等学校から特待生の話が舞い込んだこと」を三者面談で知らされた。
私立クレール女学院は、生徒のほとんどが幼稚舎からエスカレーター式の進学で、外部から入学する生徒を募集することは稀である。「優秀な成績を修め、学業その他、自身の能力向上に特に意欲のある女子」に極秘裏で声を掛け、AO入試のような制度でほんの数名、外部からの入学を認めることがあるらしい。片桐の話によれば、中学一年の時に「全国作文コンクール」で佳作を受賞した作文が、学院関係者の目に留まり、評価されたという。
「片桐先生のおかげです。先生には一年生の時からお世話になって、本当に、本当にありがとうございます! まさか、こんな機会を頂けるなんて。この子は、特別な子だって私は分かってたんです。『ちゃんとした学校』に入れておけば良かったって、ずっと後悔していたんですもの。神様は見てくださったんですね」
母は、「外部特待生募集概要」の冊子を強く握りしめながら、十は年下の女教師に向かって何度も頭を下げた。名門クレール女学院に入学する希有なチャンスが娘に舞い込んだことを、涙を流して喜ぶ。もちろん、「一年目、学費全額免除。二年目以降、基準を満たす場合は学費全額免除。基準を満たさぬ場合は、成績・学習態度等を総合考慮した上で決定する。」という文言をしっかりと確認した上で、だ。
(つづく)
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